漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.30 手塚治虫氏へのアプローチ
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.30 手塚治虫氏へのアプローチ
文藝春秋社の名物編集者・池島信平氏の新漫画雑誌「漫画サンデー」に対する厳しいアドバイスに、編集長・峯島正行氏の心は揺らいだ。
気弱になった峯島氏に対して、近藤日出造氏は、「なに、他人は何とでも言えるさ。(漫画雑誌が)成り立つか、成り立たないかは(中略)アイデア、プラン次第なんだよ。アイデアとなると、漫画家はアイデア商売だから、いくらでも助けるよ」(『近藤日出造の世界』青蛙房刊より)と言って峯島氏の背中を押した。
そしてこの時、いくつかのプランが近藤氏から提示された。
その中のひとつに、『歩く座談会』というのがあった。お色気にしぼり、近藤氏が取材・速記をこなし文章にする。絵は杉浦幸雄氏が担当。初めは、日劇ミュージックホールの楽屋、そして浅草の木馬座、芸者置屋と、とにかく話題の場所、人物に会い、語り、世相を浮き彫りにするというもの。カメラマン、速記者、レコーダーなんて使えない時代である。当時としては斬新かつ画期的な企画だった。
この企画に最初は半信半疑の峯島氏だったが、これが意外にも大ヒット。漫画サンデーの名物連載となった。
当時の座談会の様子を峯島氏は次のようにかいている。
「ゲストと共に先ず食事をして、終わると、近藤は『では、お話を聴きましょうか』と言って、料亭が用意した便箋をテーブルの上に置く。そして、やおらチェリーに火をつけ、口に啣えたまま、目を細めて質問をはじめる。ゲストの話を聞きながら、便箋一枚に近藤は、ちょっちょっとメモをするだけであった。そして或る程度の話を聴くと『はい、もう結構です』と言ってメモを折り畳んでポケットに入れてしまう。あとは雑談である。それが後日、(中略)訪問座談会の原稿となって、私の手に渡される。ゲストの話に間違いがないばかりでなく、その口調、言葉遣いの特徴までとらえて表現されている。近藤が対談中にとるメモは、話の内容ではなく、語り口の特徴を捉えるためのものだった」(同前)
近藤氏がいかに座談、ルポの名手であったかということが、この話からもうかがえる。
この異色連載は、ある総合雑誌に激賞されたこともあり、評判となり、峯島氏が編集長(約10年間)を退いた後もしばらくつづいたという人気座談会だった。
そのほかに馬場のぼる氏、小島功氏、鈴木義司氏といった人気上昇中の(当時は)若手漫画家がズラリと並んでいた。
『人間ども集まれ!』より ©Tezuka Productions
手塚治虫氏が漫画サンデーに登場するようになったのは、1963年(昭和38年)の「別冊漫画サンデー」8月号に掲載された『午後一時の怪談』からである。その後、「漫画サンデー」9月号に『クラインの壺』、12月号に『大日本帝国アメリカ県』と立て続けに読み切りの作品を描いている。
この時期になると、劇画の台頭という環境の変化もあったろうが、「漫画サンデー」も安定してきた余裕からか、峯島氏の中にナンセンス漫画以外の長編ストーリー漫画も掲載したいという思いがふつふつと湧いてきたようだ。それには、“誰もが驚く漫画家”の登場を考えた。安易に走らず、常に困難な道を選択しようとするのは、雑誌編集者のサガかもしれない。
峯島氏は、当時児童漫画の王者・手塚治虫氏にあえて新たな成人向けの漫画を描いてもらおうと考えた。その時のことを次のように語っている。
「児童漫画と成人漫画とはほとんど閉ざされた別世界だったので、手塚に頼むことをここにきて、やっと気が付いた」(『回想 私の手塚治虫』山川出版社)峯島氏は、手塚氏の事情も知らないで接触を始めた。しかし、手塚氏にとって、この時代は疾風怒涛の時であった。とても峯島氏の要求に応ずる事情ではなかった。
昭和36年当時の当時の事情について詳細は避けるが、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを氏らによる劇画の台頭に手塚氏は自信を失いかけていた。
手塚氏は『ぼくはマンガ家』(角川文庫)の中で、「マンネリだ、マンネリだと読者の手紙が殺到、何を描いても評判が悪く、しかも助手は劇画に熱中する」と書いている。
巨匠・手塚氏を落ち込ませるほどの勢いで劇画は席巻し始めていたということがわかる。
この時期、手塚氏は気分転換に阪大医学部時代の恩師のいる奈良医科大学の研究室に通い、“タニシの精虫の研究”をしたりしていた。この研究成果が後に「漫画サンデー」誌上で発表された傑作『人間ども集まれ!』に結実したと峯島氏は語っていた。
それはさておき、ある意味で手塚氏周辺の環境の変化は、手塚氏に成人向けの漫画を描いてもらうチャンスでもあった。
そして、前述の「別冊漫画サンデー」に読み切り作品が登場することになったのである。
この時から、手塚氏と編集者との締め切りの攻防戦が展開されることになるが、その話については、また改めて紹介したいと思う。(つづく)
*参考文献・峯島正行著『近藤日出造の世界』(青蛙房刊)、同著『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)、『実業之日本社百年史』*参考文献より引用した部分については敬称を略させていただきました。