漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.31 劇画の台頭
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.31 劇画の台頭
「週刊漫画サンデー」は、手塚治虫氏が登場するまでナンセンス漫画中心の雑誌だった。先にも触れたように、最初から「ストーリー漫画」を外しての編集方針だったのか、といえばそうでもなかったようだ。
1956年(昭和31年)当時は、「週刊新潮」「週刊女性」など出版社系から刊行された週刊誌が人気を博しはじめた時代でもある。その時流に乗って芳文社から創刊された「週刊漫画TIMES」は、大人の読者をターゲットにしたストーリー漫画誌だった。漫画集団のナンセンス漫画中心に構成された文藝春秋社の「漫画読本」と一線を画してのことだったのかもしれない。
「週刊漫画サンデー」は「週刊漫画TIMES」に遅れること3年の1959年(昭和34年)に創刊されたが、ストーリー漫画中心の「週刊漫画TIMES」の道を選ばず、ナンセンス漫画中心の雑誌で勝負に出た。
しかし、決して「ストーリー漫画」を嫌ってのことではなかった。峯島編集長は当時を振り返り、次のように言っている。
「漫画雑誌にストーリー漫画がないということは、メインディッシュのないコース料理のような物足りなさがあった」(『回想 私の手塚治虫』山川出版社)
「週刊漫画TIMES」が創刊された1956年(昭和31年)当時といえば、大阪の日の丸文庫から貸本漫画誌「影」や「街」が創刊され始めた時代でもある。劇画という言葉は、「影」の中で掲載されていた辰巳ヨシヒロ氏の『幽霊タクシー』で初めて使われたと言われている。「ストーリー漫画」は少年のモノ、という考えが覆され青年から大人にまで広く支持されるようになった時代でもあった。「週刊漫画サンデー」が創刊された年には、白土三平氏の『忍者武芸帳』が三洋社から刊行されている。
『無用ノ介』より ©さいとう・たかを/リイド社
さいとう・たかを氏は、「劇画」というネーミングが生まれるまでのいきさつを次のように語っている。
「手塚先生たちは、自らの作品を『ストーリー漫画』と銘打ち、次々と斬新な作品を発表、それを受け、我々も『漫画』に代わるネーミングを模索していた。(中略)『説画』『コマ画』など、いろいろな案が出たが、まさに産みの苦しみに苛まれ、殺気立った議論になることしばしば。収束の方向に動いたのが、辰巳ヨシヒロが考案した『劇画』という名称であった。すでに自らの作品をそう称していたのだが、これにも異論がはさまれた。紙芝居業界で、『画劇』と言っていたのだ。それをひっくり返しただけのネーミングでは紛らわしい、そんな意見だった。それで議論は振り出しに戻り、ずいぶんとエネルギーを費やした。私は『やがて、紙芝居はテレビに取って代われるのではないか』と思って、『劇画』と呼ぶことに賛成した」(さいとう・たかを著『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代』新潮社刊)
私たちは安易に『劇画』というネーミングを多用していたが、このような背景があって生まれたことは知らなかった。
いずれにせよこの時代、漫画の世界にも新しい波がひたひたと押し寄せていたことは間違いなかった。このような環境の中での「週刊漫画サンデー」の船出であった。
峯島氏の頭の中にも「ストーリー漫画」への関心はあったようだが、それはアメリカンコミックスを指していた。当時、『スーパーマン』などが人気だった「10セントブックス」というコミックがアメリカで一世を風靡していた。それを銀座の洋書店でみつけた峯島氏は、「週刊漫画サンデー」に劇画らしき漫画を載せたいと考えたという。辰巳氏やさいとう氏たちによる新しい「劇画」の台頭については、この時点ではまだ知らなかったようだ
「週刊漫画サンデー」のテスト版の中には「劇画」らしき作品も入っていたが、どちらかといえば、アメリカンコミックに近いハードボイルドな作品だった。
その当時のことを峯島氏は、「ハードボイルド作家大藪春彦に頼んでストーリーを書いてもらい、挿絵画家にそのストーリーをコマ割りの絵で表現して、その後出てきた劇画とほとんど同じような作品を作った。(中略)その他のナンセンス漫画と並べて掲載してテスト版をつくり、販売関係方面に配ってもらった」(同前掲)と語っている。
しかし、このテスト版は、販売関係者には不評で、「こんな汚いものを載せて売れるものか」(同前掲)と一蹴されてしまったという。どうも、当時は「劇画」的なものに対する偏見はまだ根強くあったようで、「劇画の載っている週刊誌を初めて見る販売関係者には総じて評判が悪かった」(同前掲)ようだ。
こうして、「劇画」的な作品も入るはずの「漫画サンデー」第一号は夢と消えた。
峯島氏は、その後のことを余談として、「劇画」を批判した販売関係者から「お宅の雑誌には劇画がないから弱い」と言われたという。私には、その時の峯島氏の気持ちが痛いほどわかる。(つづく)
*参考文献・『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)、『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代』さいとう・たかを著(新潮社刊)