【漫画家のまんなか。vol.1 鳥飼茜】人生の光と影を等しく描くために、私は私の漫画と対峙し続ける
人気の漫画家に、ルーツとなる漫画作品と、それらからどのような影響を受けたかをお話してもらう「漫画家のまんなか。」シリーズ。
今回は、圧倒的な吸引力で読者を惹きつけてやまない鳥飼茜先生に話を伺います。
そこはかとない背徳感が漂う、鳥飼作品の原点はなんなのか。普段は語ることが少ないというお気に入り作品への想いや独自の創作観から、その輪郭が見えてきました。クライマックスに向かう『サターンリターン』の見どころも熱量高く語っていただいています。
▼鳥飼茜
1981年、大阪府出身。2004年に「別冊少女フレンドDX ジュリエット」でデビュー。
青年誌での初連載は「モーニング・ツー」での『おはようおかえり』。
代表作でもある『地獄のガールフレンド』『ロマンス暴風域』はドラマ化もされている。
2022年10月、『サターンリターン』が完結。
幸不幸が等価値で描かれる古谷作品に魅せられた
私が美大に通っていた頃、古谷実先生の『シガテラ』を読んでいました。いち読者の採点にはなりますが、完成度がとても高かった。あまりにも素晴らしく、かっこよかったんです。この作品との出会いが、私が漫画家を目指す動機の一つになったことは間違いありません。
そもそも高校生のときに『ヒミズ』を読んで、すごいかっこいいなと思ったんですよね。古谷先生は『行け!稲中卓球部』というアホになりきったギャグ漫画で一世を風靡した方なのに、こんな人間のダークサイドを扱う作品をしっかりとした絵で描いてくるんだ、と衝撃でした。
一番好きなのは、『グリーンヒル』です。『グリーンヒル』は、『行け!稲中卓球部』と『ヒミズ』の間、色で言うと白から黒へのグラデーションの狭間にあるような作品です。あらゆる出来事に対して誇張もせず、悲観もせず、ちょうどいいバランス感覚で描かれているのが、すごくいいなと感じて。
私、そういう人が好きなんです。絶望的状況の最中でも、なぜかちょっと笑ってるような人。冷笑家は大嫌いですけど、斜に構えたり、皮肉めいたりするのではなく、現状を受け入れて見通しを立てた上で、残された希望を馬鹿にせず軽やかに生きていく姿勢は、礼儀正しいなと思っています。私自身は不幸の渦中にいるとき、包み隠さず振舞うので、恥ずかしいです(笑)。理想の生き様が描かれているという意味でも、『グリーンヒル』はすごく好きな作品です。
『行け!稲中卓球部』以降の古谷作品は、普通の人が普通の日常を送る中で、実はすぐ横に深い穴が空いていて、一瞬にしてその奈落に落ちることもあるし、ちょっとしたことで幸せを得ることができるという両極端な場面を、ほぼ等価値として描いています。良いことも悪いことも、ある程度同列に捉える生き方を示す漫画は稀なんじゃないかなと思います。
素の自分を作品に投影することを学んだ、アシスタント時代
実は、作家としてデビューしつつも生活費のためにアルバイトをしていた頃、古谷先生のアシスタントを勤めていました。きっかけは、ヤンマガに掲載されていたアシスタント募集のお知らせです。当時、アシスタントの仕事は編集部の方から紹介されることが多かったのですが、私は自ら応募しました。ツテもない中、一生懸命背景のサンプルを描いて送ったので、採用されてすごく嬉しかったのですが、後日聞いたら、私の自宅と古谷先生の職場が単に近かったことが決め手だったみたいです(笑)。
当時の職場は古谷先生と男性アシスタント2名、そして私の4名体制でした。仕事中にテレビから流れてくる話題に対して、そこまでフェミニズム的なことじゃなくても「これっておかしくないですか?」と結構息巻いていたんですよね、私が。それを聞いた他のアシスタントが「また話が長くなりそうだな」と苦笑いしたり、年の近い子とはイラッとして言い合いになったりして。その様子を古谷先生は、ただ面白がって見ていましたね。
古谷先生の元では、『わにとかげぎす』が終了するまでの1年半ほどお手伝いしていたのですが、今でも印象に残っている言葉があります。
読み切り作品を古谷先生に見ていただいたとき、「(どこかで見たことあるような漫画を描くよりも、)鳥飼さんが普段喋ってることを描いた方が面白いよ」「漫画でも、もっと破天荒っぽいことをすればいいのに」とおっしゃってくれて。素の私を作品に投影していいんだと思いました。
目の前の漫画に、自分の全てをもって対峙する
古谷先生からは、折に触れてアドバイスをいただいています。京都を舞台にした『おはようおかえり』の連載中、「先が読めてつまらないな……」と感じて、「次回作は、自分の思っていることを人の意見を恐れずにやってみたい」と古谷先生に相談したんです。
すると、古谷先生からは「今連載してる作品で、できることを全部やってみたら? 毎回、全力で一番遠いとこまでボールを投げるのが、連載してる者の責任だよ」というようなことを言われて。それを聞いて、すごく恥ずかしくなりました。
そこから展開をガラッと変えました。周囲からの評価が変わったということはありませんでしたが、自分としてはすごく好きな形で終えることができました。
私は本当に横柄で、人のことを尊敬しない人間なんです。学ぶことが苦手な体質で、自分で選んで自分で納得しないと身につかない。人から言われたことを素直に吸収するタイプではなくて。
そんな私に古谷先生の言葉が響いたのは、元々ファンだったり、アシスタントをしていたり、というのもあるけれど、漫画家としてはもうこれより上の人がいないと思ってるからです。だからアドバイスをいただいたときは、ありがたいという気持ち以上に「当然そうする」という気持ちで聞いています。
こんな風に語ると相当強い親交があるように聞こえるかもしれませんが、やりとりも年一回程度のごくあっさりとしたもので。けれど、そういう細い繋がりがすごくありがたいです。
おそらくこの関係性が続いているのは、私が先生に畏怖の念を抱いているのはもちろん、先生が他者に対してきちんと距離を保つ方だからだと思います。漫画に限らず私生活のことも相談したり、アドバイスを求めたりしたときも「わかんないけど、こうしてみたら」と、必要以上に踏み込まず、ライトな感じで返してくれました。ただ、芯をくってくる返答なので、ぐえっ! となることもあります(笑)。
これまでの人生、要所要所で最小限に最大の効果をもって助けてくださったので、なるべく今後は頼りにしないで生きていきたいとは思っています。
『サターンリターン』は作者を食う、想定外のクリーチャー
2019年から「週刊ビッグコミックスピリッツ」で連載が始まった『サターンリターン』ですが、単行本6巻が発売された頃から、10巻できれいに終わらせることを念頭に執筆を進めてきました。ちょうど先日、最終回の原稿を描き終えたところです。
1、2巻を描いてるときに考えていた結末と、描きあげた結末は違いますし、物語そのものが最初に想像していたものと違うものになりました。
連載中に何度も脱皮して、想定とは全く別のクリーチャーができたので、本当に楽しかったです。ただ、トライアンドエラーを重ね、自分の足りないものを見つめながら描き続けるというのは厳しい面もありました。
今までは、いくつか連載を並行して持つスタイルでしたが、本作においては1本だけに集中するようにしました。それだけ真剣に向き合ってきたし、これまで描いたどの作品よりも全力投球してきました。
だからこそ見えてきたラストは最初の想定をはるかに超えていて、私自身が一番面白いと思いながら描き続けることができました。友人には「8〜10巻は、すごく神がかってるから読んでくれ!」と、一生懸命伝えています(笑)。
私は、私の漫画と戦う。不幸っぽい物語に抗う覚悟
人と関わる以上、「鼓舞されたな」と感じる出来事もあれば、「自分が損なわれた」と喪失を感じる出来事も起こります。人生はその良し悪しの繰り返しです。
ただ、『サターンリターン』は喪失をテーマにしていたこともあり、日常生活において喪失サイドの出来事に集中しすぎてしまったきらいもあります。自分の身に起こった喪失を漫画という形に落とし込むために、嫌だったことを反芻しながらセリフやシチュエーションを作る行為は、すごくしんどいものでしたし、ともすれば自傷行為です。
そういう過程を経て生まれた作品を読むのは、しんどいだろうなと思っていました。友達からも「買ったよ」と連絡はくるけれど、感想を聞くと「まだ枕元に置いてある」「読むけど、今はタイミングじゃないんだよ」とよく言われています。それだけ気力がいる作品なんですよね。
連載中盤からは、気力を要する物語に長く付き合ってくれた人にお返しをしたい気持ちと、申し訳なかったと謝りたい気持ちとが溢れてきて、このまま不幸っぽい漫画っていうだけでは終わらせない、最初から終わらす気もなかったけど、必ずついてきてくれた読者を幸せにしよう、とこれまでにない勢いで物語に大きくテコ入れをしました。
単行本7巻のあとがきでは、「今まで血を流すような行為を見せてきてしまったけれど、それには意味があった。このまま損なわれるだけでは終わらない」と伝えるために、ちょっとこれも重たすぎる手紙のような文章を書きました。
漫画と仲直りしたことで見出せた、私なりの「断罪すべき対象との戦い方」
「自分の身に起こった出来事とオーバーラップすることがある」と感想を寄せてくれる方もいますが、正直心苦しくて。おそらく、私が物語で描く課題をちゃんと人生でクリアした状態で『サターンリターン』を描けていれば、毎回もっと強いカタルシスを提供できていたと思います。後悔はそこです。
簡単に言うと、自分を損なってくる敵に正当な制裁を与えるシーンが描かれていれば、読者は多分スッキリしますよね。読んでいて胸がすくし、おそらくもっと売れたと思います。ただ、それが少し前の私にはできませんでした。
私、わかってないんですよ、女のことも男のことも人生のこともなんもわかってない。
わからないまま、実生活で闘うべき事柄から逃げたり、捻じ曲げて正当化したりしてた自分が執筆しているので、断罪しきれずに話が終わってしまった。
先ほども言ったように、なんとなく不幸を売りにしてるだけの漫画にするつもりはなかったのに、戦わずにナメた生き方をしてるうちに漫画に負けたんですよ。真剣だったはずの漫画に、弱い自分が食われちゃった。途中から本当にただなんとなく不幸を売りにした漫画になっちゃってた。だいぶ経ってから、それに気づきました。
だから必死でした。最後の、7巻くらいから、ようやく漫画と仲直りできた感じがある。「断罪すべき対象に制裁を加えるのではなく、別の方法で胸がすくようなやり方がきっとあるはずだ」と考え、戦い方をずっと探しました。最終巻では、それに対する私なりの最大限の解を出せたと思います。
漫画に勝った、って私は思いましたけど、売れなかったし、漫画の方は全然ちょっと許してやったくらいに思ってるでしょうね。
ただ、このことは全てが私にとってすごく奇跡的でしたし、今の私が描ける最高のバランスで物語を締め括ることができたと思います。ぜひ楽しみにしていてください。
人生に等しく存在する光と影を、等しい出来事として描き続けたい
人生において、光と影は同じような感じで混在している。良いことも悪いことも等しい出来事として捉えてほしいし、自分もそう在りたい。それが『サターンリターン』で描いた私の想いです。
おそらく、次回作でも描きたい想いは大きく変わらないと思います。人生に影があることは事実ですし、だからと言ってあまり深刻にならないように気をつけて描こうとは考えています。
とにかく次回作は、買ったら枕元で寝かさずに、すぐにビニールをむいて読んでもらえる漫画にしたいですね。仕事の休憩時間に気軽に読んでもらえる、ルマンドのような漫画を目指します(笑)。
インタビュー:
ネゴト
/
篠原舞
執筆:
ネゴト
/
あまみん