【漫画家のまんなか。vol.28 バロン吉元】「ワクワクする気持ちを持ち続けたい」 劇画家・バロン吉元の飽くなきチャレンジ魂

トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。今回は、1960~70年代にかけての劇画全盛期を築いた巨匠の一人・バロン吉元先生にお話を伺います。
2025(令和7)年は、バロン吉元先生の代表作「柔俠伝」シリーズ55周年のメモリアルイヤーです。さらにバロン先生は84歳にして、約20年ぶりの新連載『あゝ、荒野』に挑戦されています。
劇画・漫画界のみならず、政治経済、芸能、芸術など、各方面にインパクトを与えてきたバロン吉元先生。その創作の原点には、常に熱いチャレンジ魂があったと言います。南国・鹿児島でおおらかに育った少年時代、イラストレーションの巨匠から受けた影響、劇画家としての画業、これからの展望までをお聞きしたいと思います。
▼バロン吉元
1940年、満洲(現・中国東北部)生まれ。鹿児島県指宿市に育つ。
1959年に貸本劇画誌「街」に投稿した『ほしいなァ』が入選。武蔵野美術大学西洋画科中退後、劇画家を目指し横山まさみちのアシスタントとなる。セツ・モードセミナーでイラストレーターの長沢節、穂積和夫の薫陶を受ける。吉元正の名で貸本劇画を描いた後、1967年発表『ベトコンの女豹』よりバロン吉元のペンネームを使用。同年8月創刊の「週刊漫画アクション」を中心に青年誌に作品を発表する。1970年より「柔俠伝」シリーズを連載し、その地位を不動のものにする。2005年、大阪芸術大学キャラクター造形学科教授に就任。「龍まんじ」の雅号で絵画制作に挑戦するなどマルチに活躍している。2019年、第48回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞受賞。

柔道部から美術部へ! 挿絵画家に憧れた少年時代
私の代表作「柔俠伝」シリーズが始まってから、早いもので55年が経ちました。私自身も柔道をやっていましたが、始めたのは父から言われたからです。彼は大変な柔道好きで、私が中学へ入ると「柔道か剣道をやれ!」と言ったんです。ところが少年時代の私は、挿絵に強い憧れを抱く一方で、柔道や格闘ものが大嫌いでした。
迷いながら始めた柔道ですが、高校まで続けました。一生懸命打ち込んでいると、どこか好きなところが出てくるものです。父とは「昇段試験に受かったら辞めてもいい」という約束でした。昇段後、念願の美術部へ入部。東京の美術大学に進学した先輩から助言をもらい、高校を卒業すると武蔵美こと武蔵野美術大学に進学するため上京しました。
話は小学生時代に遡りますが、私の家の近所に貸本屋があって、皆がこぞって漫画や雑誌を借りていました。私が育ったのは戦後間もない時代ですが、復興とともに大衆小説や少年誌、単行本などが出版され始めていました。そこで私も漫画や小説、雑誌を貪り読みましたが、限られた小遣いの中で何を借りるべきか、とても悩んだことを覚えています。
中学生になった頃でしょうか。鉛筆で手塚治虫調の漫画を描いたことがあります。ただ自分では、「ストーリー漫画なんか描けるわけがない」と思っていました。たとえストーリーを作れたとしても、それをコマで構成するのは難しいと感じていたのです。私は大衆小説雑誌の挿絵が好きで、「一枚絵だったら自分にも描けるのではないか」と思いました。
挿絵の勉強を始めたのは中学3年生の頃。貸本屋から借りた大衆小説雑誌をランダムに開き、そのページで書かれたシーンを絵にしていました。それが非常に楽しかったし、私にとって勉強にもなりました。村上豊先生、大塚清六先生らの挿絵が好きで、作品を真似ることもありました。中でも大塚清六先生が一番好きで、武蔵美時代に番号を調べてお電話をかけたことがあります。
「大塚先生の絵が私は大好きです。先生の弟子にしてください」。18歳だった私には、それを言うだけで精一杯。大塚先生からは、「私は君に与えるものがあるけど、君は私に何をくれるのかね」と問われ、そのまま電話を切ってしまいました。「何でもやります!」と答えればよかったのに、と後悔しています。
長沢節先生にコスチュームデッサンを学ぶ
大塚先生への弟子入りは叶いませんでしたが、私は挿絵画家になる夢を諦めきれず長沢節先生に連絡をしました。1954(昭和29)年、長沢節先生がファッション画を教えるセツ・モードセミナーが東京に創設されていたのです。セツ・モードにはファッションの世界を志す若者が集まり、衣服を纏った人物の描き方を学んでいました。私は武蔵美に通いながら、設立初期のセツ・モードへ1年ほど通い、そこで「コスチュームデッサン」を学びました。
武蔵美で専攻していた西洋画科では、石膏やヌードのデッサンはしていましたが、長沢先生のところではコスチュームデッサンが当たり前。衣服にできる“シワ”を描けたら、人間の動作を表現することができます。長沢先生から評価していただき、絵描きとしての手応えを早くも感じた私は、2年制のカリキュラムを1年で辞めてしまいます。
貸本漫画誌から誕生した劇画
私が青少年時代を過ごした昭和30年代は空前の貸本漫画ブーム。「魔像」「影」(以上、日の丸文庫)、「街」(セントラル出版社)、「Gメン」(島村出版)、「刑事(デカ)」(東京トップ社)などが貸本漫画誌の有名どころでした。大阪の貸本出版社から生まれた劇画に魅力を感じていたのです。
テレビの普及により斜陽となっていきますが、私が上京した頃はまだ貸本漫画に勢いがあって、新人発掘のためさまざまな賞が用意されていました。私は貸本漫画誌に投稿を続け、「魔像」にカットが掲載されたこともありました。「街」では、新人コンクールに何度か入選するとともに新人特別賞を受賞。入選する人はそれなりにいましたが、「特別賞」を取るのは難しいことでした。
その原稿料をセントラル出版社へ貰いに行ったところ、同じく新人の漫画家が来ていました。後に、さいとうプロのチーフを務めるようになる武本サブローさんです。彼から誘われて、私もさいとうプロに同行したことがあります。当時のさいとうプロは、「ゴリラマガジン」という貸本漫画誌を出版して劇画ブームの一翼を担っていました。憧れのさいとうプロで、さいとう・たかを先生、石川フミヤス先生に会うことができ、私は非常に喜びました。さいとうプロには上手なアシスタントが3人ほどいて、私が入る余地はありませんでしたが、さいとう先生のお話しを聞くのが楽しくて仕方がありませんでした。

横山まさみち先生に入門する
私は武蔵美の学生寮があった吉祥寺を出て、練馬区の桜台に住み始めました。その頃、横山まさみち先生のご本の中で「アシスタント募集」の告知に目が止まりました。私の下宿から自転車で行ける距離に横山プロはありました。早速横山先生に面会してプロダクションに入門。最初のアシスタントとなりましたが、アシスタント料は出なかった。執筆の傍らでアルバイトを掛け持っての生活は多忙でしたが、私は最盛期を迎えた劇画に夢中になっていました。
当時の横山プロには、後にアニメーターになる荒木伸吾さんがいました。彼の絵には動きがあって、大好きだった。荒木さんは、私より先に「街」で「特別賞」を受賞しています。彼は鉛筆で下絵を描いてからペン入れをするのですが、その下絵が「このままでいいのでは」と思うくらい完璧なんです。彼はその後、アニメの世界に転向し、『聖闘士星矢』『キューティーハニー』などのキャラクターデザインを手掛けて大活躍されています。2000年代初頭に久しぶりに再会できたときはお互い感激。喜びを分かちあったものです。
劇画を描き始めた頃は、私も周りの作家と同様にGペンなどで描いていましたが、どうしても線が硬くなってしまいます。ペンで描くときのカリカリとした感触も苦手でした。そこで筆を使ってみたところ、スピードが格段に速くなった。私は高校時代に日本画の先生に筆使いを教えてもらったことがあり、元から筆に抵抗がなかった。何より、セツ・モードセミナーで長沢先生から教えていただいたデッサンは、いかに筆の一発描きによって、人物、コスチューム、そして構図を捉えるか、というものだったので、今から思えばそれを劇画の世界に応用したわけです。ペンは描くたびペン先に墨汁を含ませなければなりませんが、筆は一度含ませれば長く使えるのも大きな魅力でした。
アメコミ調で独自の劇画スタイルを開拓
やがて、横山プロで自費出版が始まりました。ただし問屋を通さなければならない上に、分厚い単行本を月4冊のペースで出版するという条件付き。横山まさみち先生単独での執筆では、私がいくらアシスタントをしても間に合うわけがありません。横山先生が3冊、私が1冊描き下ろすというかたちで出版事業が始まりました。
私は、横山先生の人気作「鉄火野郎」シリーズ(兎月書房)を引き継ぐとともに、本名である吉元正名義でオリジナル作品を描かせていただくようになりました。それらは編集者からは評価されたものの、私自身は自信を持てずに中途半端な気持ちでいた。なぜなら、横山先生から引き継いだ「鉄火野郎」シリーズを5、6本描いたところで、「アメコミ」(アメリカン・コミック)調にしてしまったからです。
私の少年時代、家の近所にあった大きな旅館が進駐軍の宿舎となっていました。娯楽が少なかった時代のこと、アメリカの若い兵隊たちが手慰みに漫画を読んでいたのでしょう。そこで『BATMAN(バットマン)』を目にした私は、当時“10セントコミック”と呼ばれていたアメコミの虜となってしまいます。日本の挿絵や漫画にはない、リアルな絵柄やドラマ性に富んだストーリーに驚いたのです。作品の舞台である“ゴッサム・シティ”は高層ビルが立ち並ぶ巨大都市ですが、同時に凶悪な犯罪者の巣窟でもあります。そんなダークなイメージが気に入って、「こういう漫画を描いてみたい」と思うようになったのです。
1966(昭和41)年には、「メンズクラブ」(婦人画報社/現・ハースト婦人画報社)で『アトランティスの秘密』(POプロ同人名義)が掲載されました。ジェームズ・ボンドばりのキャラクターが登場する劇画ですが、『絵本アイビーボーイ図鑑』で人気となるイラストレーター・穂積和夫先生とのコラボレーションでした。
穂積和夫先生は、私のセツ・モード時代の恩師でもありました。私は学校を辞めた後も世田谷のお宅に遊びに行っていて、そのうちに「二人で劇画を描こう」という話になったのです。穂積先生が提案してくださったストーリーを、私が漫画として構成し下絵を描く。そこに穂積先生が手を入れてくださるという流れでした。「やはり穂積先生は上手い」と感心しながら、手直しされた絵を仕上げていきました。今となっては、懐かしい思い出です。
劇画家・バロン吉元誕生
横山プロダクションから独立した後、出版社へ持ち込みを始めました。当時の双葉社は“11大大衆雑誌”と呼ばれるほど多くの雑誌を出版していました。著名な小説家が寄稿していて、全ての作品に挿絵がついていたんです。「私一人ぐらい採用してくれるのでは」と甘い気持ちで挿絵を持ち込みましたが、門前払いされました。当時の多くの挿絵画家は、今で言うイラストレーターとは少し違って、画壇で活躍する一流の画家たちが、作品はなかなか売れないなかで、生活のために挿絵の仕事をしていたのです。そこに新人の私が入り込む隙間はなかった。
折しも世は漫画がどんどん人気を獲得していった時代。双葉社も、大衆小説誌に漫画を掲載するようになっていました。ここに私はアメコミ調の絵を持ち込んで、「漫画ストーリー」編集長の清水文人さんに見てもらったのですが、何の批評もなく、ただ「あ、これだ。16枚描いてこいよ」と言われただけ。私はアメコミ調の絵で描いた『白い墓穴』を持っていき、この作品が「漫画ストーリー」の1967(昭和42)年5月号に掲載されて商業誌デビューとなったのです。以降、アメコミやバンドデシネに影響を受けた西部劇やアクションものを発表するようになりました。
私が27歳の時のことです。それまで本名の吉元正名義で漫画を発表していましたが、編集部から「ペンネームを考えろ」と言われました。どうやら私だけでなくて、その当時の新人全員が言われていたようです。「漫画ストーリー」に掲載された『ベトコンの女豹』で初めて“バロン吉元”と名乗っていますが、これは編集部から勝手につけられた名前でした。
時代は、大衆雑誌から漫画雑誌へとシフトしつつありました。清水さんは、私に新雑誌の構想を教えてくれました。この年の7月、ついに「週刊漫画アクション」(双葉社)が創刊されます。 “ヌーベルコミック劇画”の謳い文句が新鮮で、新しい青年雑誌の誕生を告げるものでした。私は創刊号に『ダイビング作戦』(大藪春彦『名のない男』原作)を発表。『ルパン三世』のモンキー・パンチさんも新人の二枚看板として一緒に載りました。
モンキーさんが、本名の加藤一彦名義で貸本漫画を描いていたことは後になって知りました。彼の運転する車で互いの家を行き来するなど、モンキーさんとは親しくさせていただきました。映画やSFが好きな方でしたが、中でもSFテレビドラマシリーズ「スタートレック」の大ファン。メカニックへの造詣が深く、あれこれ教えてくれました。彼と漫画の話をする機会は少なかったのですが、他愛のない話がたまらなく楽しかったのを覚えています。お互い秘蔵のフィルムコレクションを交換したりね。
随分と後にデジタル時代が到来すると、二人でCGを習いに通いました。漫画家がデジタルでの作画法を学んだ最初期のことでした。日本に入りたてのMacintoshのコンピューターを購入して、CGに挑戦したモンキーさん。私もMacintoshを買ってみたものの、漫画の仕事には使いませんでした。私は筆を使って描くのが非常に速かったので、コンピューターで描くのはもどかしかったのです。

『ガンファイター』©バロン吉元
アメコミ調の劇画からの脱却
私はアメコミ・タッチの作品を描き続けましたが、その人気に甘えるわけにはいきません。“まあまあ”受けたということは、それ以上の読者を獲得できないことを意味しました。そんな折、双葉社の編集者から「何か社会的なものをやったらどうだ」と言われて始めたのが「賭博師たち」シリーズです。

ギャンブルものを提案された私ですが、鹿児島出身の九州男児なので博打は嫌いでした。「賭け事は良くない」という気持ちが強かったため、編集者に否定的なことを言いましたが、「博打をやっていないあなたが、なんで否定するのか」と切り返されてしまいました。そこで麻雀を始めてみたのです。その当時、『麻雀放浪記』(阿佐田哲也)が人気で、まずそれを読んでみました。麻雀を知らない私が読んでも、実に面白い作品でした。日常で味わうことのない喜びと、負けた時の悔しさが刺激的に感じたのです。
それまでのアクション劇画から、うんと身近な世界を題材に、『ギャンブル・シリーズ 賭博師たち』を描きました。絵柄に関しても、海外マンガからの影響を経由して、自分の色を出していった。この成功が、『柔俠伝』につながっていきます。当時は東映と日活の映画が受けていた時代でしたので、そういったものにも影響はされた。しかし連載開始直前、アメリカで暮らす友人を訪ね渡米したことがありました。
進駐軍からアメコミをもらった時から、私はアメリカが大好きだった。でも暴動後の*ワッツを歩いた時は、本当に恐怖を感じました。ベトナム反戦運動や公民権運動などの反体制的な政治運動が激化する空気を肌身にビシビシと感じた。今振り返ると、そういった体験は『柔俠伝』を描き始める上で、創作背景に大きな影響を与えたのではと思います。
(*ワッツ=現在のロサンゼルス市に位置する地域。1965〈昭和40〉年に大規模な暴動が勃発)
人間賛歌として描いた『柔俠伝』
『柔俠伝』は、私が柔道をやっていた経験が生きた作品です。さらに、明治から現代に至るまでの日本の歴史を描けたという意味でも大切な作品です。沢山の資料を調べたし、取材にも励んだ。私の学生時代は映画や読書三昧でしたから、この時初めて勉強らしいことをしたと思っています。東京の古書店街・神田へ行っては、歴史や柔道に関する書籍や小説を買いました。そのような中で、『大菩薩峠』(中里介山)や『花と龍』(火野葦平)、城戸禮の「竜崎三四郎」シリーズから、多大な影響を受けることになるわけです。
『柔俠伝』は、古流柔術の起倒流の達人・柳秋水が息を引き取るところから始まります。彼は嘉納治五郎に挑んで敗れた無念から、息子の勘九郎に打倒講道館の夢を託していました。講道館柔道に挑むため小倉から上京した勘九郎ですが、逆に歴史の荒波に飲まれていきます。その背景に明治という時代があるのです。一人の人間が講道館に立ち向かい、何ができるのでしょうか。「いかに生きるか」という人間の本質的なテーマを追求するため、柔道を題材にして描いたのです。
『柔俠伝』は単行本にすると3冊ぐらいの作品ですが、それがすごく売れて続きを描けることになりました。私は終わりまで考えて描いていましたが、大正、昭和、平成へと時代の変遷とともに描いていくことになりました。
私は、柔道は妥協してやるものではないと考えています。柳勘九郎は講道館という大きな組織に挑みますが、時代の渦に巻き込まれて放浪を始めます。“自分探しの旅”とも言えるものを、ずっと描き続けたという感じでしょうか。主人公なりの魅力やユーモアを加えながら、反骨の男による漂泊を描き続けました。
人間、一人では何もできないものです。柳勘九郎を旅立たせたのは、物語を人間関係の構築という方向に持っていきたかったからです。「人間は、出会いを通して成長していく」。私の実体験に基づく考えを、漫画のキャラクターに託したのです。『柔俠伝』の魅力というのは、柳勘九郎を取り巻く人物群像にあると思います。

『柔俠伝』©バロン吉元
戦記や歴史漫画への挑戦
『柔俠伝』の発表を契機に、さまざまな雑誌から声がかかるようになりました。1972(昭和47)年、「ビッグコミック・オリジナル増刊号」(小学館)で『どん亀野郎』を発表。海軍のはみだし者たちがドイツからプレゼントされたオンボロUボート(潜水艦)に乗って、真珠湾へ向かうというお話です。速度が出ない上、羅針盤が壊れて方向もわからない。艦隊から置いてきぼりにされた連中です。戦記ものをコメディ的な視点から描いた作品でした。
翌年、「週刊少年サンデー」(小学館)で『黒い鷲』を連載。読者からたくさんのお手紙をいただいて、「少年誌に描くと、こんなに反響があるのか」と驚きました。この作品には航空機を登場させましたが、メカニックを描きたくなったのは、当時交流のあったモンキー・パンチさんや松本零士さんらの影響もあったかのもしれません。
私の少年時代の記憶もあります。第二次世界大戦末期、故郷・鹿児島から沖縄に向けて多くの特攻機が飛び立ちました。戦後、鹿児島湾に沈んだ戦闘機が引き上げられることがありましたが、そんな話を聞くと、教室の窓を飛び越えて海岸まで走っていったものです。飛行機の風防のガラスを燃やすと、不思議といい香りがするんです。そんな原体験を胸に、戦記ものを描きました。
1976(昭和51)年に「ビッグコミック オリジナル」(小学館)に発表した『西郷伝』では、幕末の薩摩藩で家老を務めた調所笑左衛門(ずしょしょうざえもん)を登場させています。財政破綻寸前となった薩摩を立て直そうとした人物ですが、藩主・島津斉彬と久光によるお家騒動(お由良騒動)が起きると、琉球を通じて清と密貿易していたことを糾弾されてしまいます。そんな事件を、歴史コメディに仕立てました。近年廉価本を出していただきましたが、改めて読んだら自分のギャグに笑いが止まりませんでした。

『どん亀野郎』©バロン吉元



渡米して世界の漫画に勝負を挑む
連載を多数抱え、漫画家として充実した日々を過ごしていましたが、私は世界に挑戦したかった。編集者からは「今じゃなくても」と引き止められましたが、少年時代に傾倒したアメコミへの想いが再燃したのです。鹿児島では果敢な薩摩の男を “ぼっけもん”と呼びますが、その性分が発揮され、すべての連載を終わらせて渡米することになります。
1980(昭和55)年、「サンディエゴ・コミコン(San Diego Comic-Con)」という漫画大会に参加するため、手塚治虫先生が私や永井豪さんなど、漫画家仲間をアメリカまで連れていってくれたことがありました。そこで初めてアメコミやフランスのバンド・デシネのような、世界の漫画の事情を知ったのです。そして日本の原稿料が一番安いことに気づき、アメリカの漫画界で暴れてみようという気持ちが強くなった。
私はジム・シューターというマーベル・コミック社の編集長に気に入られ、同社で働くチャンスを得ました。ジムは、私に会社を見学させてくれましたが、アメリカの漫画家は会社に通って、他の人たちと机を並べて仕事をします。分業制で仕事をするため、鉛筆で下絵を描く人に続いて、ペン入れをする人、着彩する人が仕上げるという具合です。でも私なら、それら全部ひとりで出来る。だから日本よりも格段に高い原稿料をもらえたというワケです。同時期に*スタン・リーとの交流も始まりました。
(*スタン・リー=マーベル・コミック社で『スパイダーマン』『X-メン』などを手掛けた原作者)
しかし、ジャパン・バッシングが始まっていた頃のことです。日本が経済大国として存在感を増し、経済摩擦が激化したことで反日感情が高まっていた。生活の中で屈辱的な思いをすることも少なくなかった。そんな中で、マーベルが私に求めたのはハラキリ、ゲイシャ、カミカゼものの作品。アメコミの本場で、アメコミを描きたかった私は、それに応えなかった。今思えば、日本で描いていた劇画を、そのままマーベルで描けばよかっただけの話なのですが。期待に応えていたら、アベンジャーズに日本人キャラが混ざっていたかもしれませんね。
結果的にアメリカに滞在したのは1年ほどで、帰国後は結婚を機に、新たな表現を頑張ろうと奮起し、絵画制作をスタートしました。
ワクワクする気持ちを忘れずにいたい
帰国してからしばらくは劇画を描いていましたが、やがて“龍まんじ”という雅号を用い、バロン吉元の名を伏せて絵画制作に挑戦するようになります。私にとっては、劇画も絵画も変わりがありません。私の中のエネルギーを形にする――その表現が少し変わっただけのことです。劇画を描く時のように、ストーリーを考えながら絵画制作に取り組んできました。大きな劇画を描いているような意識です。
2017(平成29)年、漫画家の山田参助さんや私の娘でありアーティスト、マネージャーのエ☆ミリー吉元、リイド社トーチ編集長の中川敦さんら関係者の皆様のおかげで画集『バロン吉元 画俠伝』(リイド社)が刊行されました。漫画の世界から離れていた私ですが、この出版は漫画家としての画業50年を記念する大切な一冊となりました。
そして今、私は新しいチャレンジをしています。2024(令和6)年秋から、WEB漫画サイト「コミプレ-Comiplex-」(ヒーローズ)で『あゝ、荒野』(原作:寺山修司)の連載を始めたのです。約20年ぶりの新連載ですが、劇画が再び私に乗り移ったような思いです。
『あゝ、荒野』の原作を初めて読んだとき、その本には写真家の森山大道さんが60年代に撮った写真が各章の間に収録されていて、作中の世界に惹かれ劇画を描き始めたところ「描けるな」という実感を持ちました。絵画を描き始めた頃と同じで、また一からの出直しです。「蟻の穴から堤も崩れる」と言いますが、小さな穴から漏れた水が勢いを増していくように、人気を得られれば嬉しい。
私は “80代の新人”です。いろいろな刺激を受けながら、多くの読者に楽しんでもらえるよう描き続けたいと思います。
『あゝ、荒野』「コミプレ」にて絶賛連載中!
原作:寺山修司 劇画:バロン吉元
1960年代の新宿。ケンカ自慢の新宿新次は、喫茶店で見たポスターをきっかけに仁王ボクシングジムに入会。そこで出会った“バリカン”こと荒木繁は、無口で冴えない風貌ながらも超一流の腕っぷしで街のゴロツキたちをなぎ倒していく。寺山修司生誕90年の節目の年に、巨匠・バロン吉元による“新宿アウトロー”の世界が幕を開けた!
2025年5月9日、待望の単行本第一巻が刊行!
取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略