【漫画家のまんなか。vol.27 すがやみつる】「漫画もITも可能性は無限にある」漫画家・すがやみつるの創作を支えるチャレンジ精神

トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。今回は、『ゲームセンターあらし』『こんにちはマイコン』などの人気作で知られる、すがやみつる先生にお話を伺います。
1978(昭和53)年、「コロコロコミック」(小学館)に読み切り作品として登場した『ゲームセンターあらし』。少年読者の歓迎を受けて、翌年に本格連載に漕ぎつけています。当時大人気だったアーケードゲームを題材に、バトル要素を盛り込んだストーリーは、新しい時代の到来を感じさせるものでした。
ゲームやコンピューターなどの技術と、漫画の世界を横断して描かれる“すがや作品”。その発想の原点には、自由なチャレンジ精神がありました。すがや先生がパソコン通信の時代から体験したテクノロジーの歴史、そして漫画や小説などの創作活動をお聞きします。
▼すがやみつる
1950年、静岡県生まれ。高校卒業後上京し、1971年から石森プロで石森(現・石ノ森)章太郎に師事する。同年創刊した「テレビマガジン」に『仮面ライダー』(原作:石森章太郎)を発表しデビュー。以降コミカライズ作品や、独創性あふれる少年漫画を多数発表。1979年より「コロコロコミック」で連載した『ゲームセンターあらし』は、アニメ化されて爆発的人気を博す。同作と『こんにちはマイコン』で、1983年に第28回小学館漫画賞を受賞。また、学習漫画やビジネス関連コミックを手掛けるほか、小説家として架空戦記を執筆するなどマルチな活躍を見せている。早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程修了後、2013年から8年にわたって京都精華大学マンガ学部の教授に就任。後進の漫画家・イラストレーター育成に尽力した。


インターネット歴40年、私のパソコン通信ことはじめ
私事ですが、今年でインターネット歴が40年になりました。話は1985(昭和60)年に遡りますが、この年の4月1日に電気通信事業法が施行されています。電電公社(日本電信電話公社)が民営化され、現在のNTT(日本電信電話)が発足。電気通信ビジネスに民間企業が参入できるようになりました。
それまで公衆回線は“音声”の伝送を想定したものでしたが、“コンピューター”などの端末を自由に接続できるようになったのです。これが日本のコンピューターネットワークの始まり。まだ個人が運営する通信ネットワークしかありませんでしたが、パソコン関連の出版社・アスキーが「アスキーネット」という実験的な通信サービスを立ち上げます。私も加入しましたが、まだ回線数が少なかったため、しばしば通話中になってしまうという時代でした。
海外モータースポーツ関係者との交流
それより先に、私はアメリカの「The Source(ザ・ソース)」という商業用パソコン通信サービスの会員になっています。なぜかというと、海外のF-1レースの結果を知りたかったからです。私は静岡県富士市出身ですが、富士スピードウェイが身近にあったこともあって、若い頃からF-1に強い関心がありました。当時の日本では海外のレース結果を即座に知ることができませんでしたが、アメリカのネットワークに繋げばAP、UPIなどの通信社やワシントンポストなどのニュースで、レースの結果をほぼリアルタイムで知ることができたのです。こうして私の“パソコン通信生活”が始まりました。
「CompuServe(コンピュサーブ)」という、アメリカのパソコン通信サービスにも加入。当時世界最大級のサービスでしたが、ここで「Motorsports Forum(モータースポーツ フォーラム)」を知ることになります。このサイトはF-1のレース情報の宝庫。私はここでアメリカのモータースポーツ関係者たちと知り合うことになりました。
ちょうど日本のサーキットに、海外選手の参加が多くなり始めた頃のことです。「日本のレース情報を送ってほしい」と頼まれると、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイにコンピューターを持って出発。*音響カプラを使って公衆電話からネットワーク経由で速報を送ったこともありました。ところが、私の英語のレポートがひどいと指摘を受けてしまいます。英語の文法やスペルにミスがあるというのです。
(*音響カプラ=データを音声信号に変換し、電話の送受話器を通じて通信する装置)
「Motorsports Forum」の参加者は、海外のジャーナリストが中心です。私がレポートを送信すると、「ミツルのためのイングリッシュ・レッスン」というスレッドを立ち上げて、私の英語表記を添削してくれたのです。新聞記者や自動車会社の広報といった文章のプロによるレッスンのおかげで、1年程経つと英語の直しもなくなっていきました。やがてアメリカの雑誌に、私の記事が転載されるようになっていきます。2、3年後には、アメリカのサーキットからの依頼で、私がまとめた鈴鹿サーキットのレポートが、バイクのアメリカGPの公式プログラムに掲載されるまでになりました。
その後も各国のモータースポーツ雑誌で記事を書く機会をいただき、1987(昭和62)年4月に日本で「NIFTY-Serve(ニフティサーブ)」がスタートすると、「モータースポーツ・フォーラム」を開設。その初代システム・オペレーターに就きました。今にして思えば、随分と漫画家らしからぬことをしていましたね。
漫画との出会いから同人活動まで
私の漫画との出会いは、昭和30年代のこと。マルサン商店などの玩具メーカーからプラモデルが販売されるようになり、子ども向けの漫画雑誌では零戦や戦艦大和が活躍する“戦記もの”が流行っていました。小沢さとる先生の『サブマリン707』や松本零士先生の戦記漫画に描かれるメカがリアルで好きでしたね。小学6年生の時に読んだ松本零士先生の『われら少年戦士燃えろ南十字星』(松本あきら名義)に感動して、初めて漫画を描くようになったほどです。漫画の描き方は同級生から借りた『マンガのかきかた』(秋田書店)を参考に、いきなりペンを用いて描き始めました。
1965(昭和40)年、私が中学3年の時に石森(現・石ノ森)章太郎先生の『マンガ家入門』(秋田書店)が発売されました。石森作品の載っているものは、片っ端から集めて読むほど“石森マニア”だった私です。「中学を卒業したら、石森先生のアシスタントになる」と決意していました。受験勉強の最中に漫画を30ページほど描いて、弟子入り志願の手紙を添えて石森先生へ送りましたが、返事が来ることはなく高校進学を決めました。
高校1年生の時に「ボーイズライフ」(小学館)の読書欄に、『墨汁三滴』という石森章太郎先生を名誉会長とする同人誌の会員募集を見つけて、早速加入しました。菅野誠(ひおあきら)が会長で、細井ゆうじが副会長。同年代の彼らと親交を深めていくうちに、石森章太郎先生、松本零士先生、久松文雄先生に会わせてくれると言うので、原稿を持って初めて上京しました。その時、松本零士先生から零戦のイラストが添えられたサインをいただきましたが、この色紙は今でも私の宝物です。
『墨汁一滴』は、石森章太郎先生や赤塚不二夫先生、高井研一郎先生らが参加していた東日本漫画研究会の*肉筆回覧同人誌です。『墨汁二滴』は東日本漫画研究会の女子部で、西谷祥子さんたちが参加されていました。「墨汁何滴まであったのか」と聞かれますが、『墨汁三滴』までだと思います。
(*肉筆回覧同人誌=手描き原稿をそのまま綴じて、グループの間で回し読みする同人誌)
上京しアシスタントと編集者を経験
高校を卒業すると同時に上京し、江波じょうじ先生のアシスタントを始めました。半年ほどお手伝いをした後、日本初の漫画編集プロダクションとして設立されたばかりの鈴木プロに編集者として就職しています。
実は私は高校生の時、鈴木プロ代表の鈴木清澄さんに一度お目にかかっています。彼が「COM」(虫プロ商事)の編集をしていたので、私の漫画を見てもらったのです。周りが青春の苦悩や純文学的な作品を描いているのに対し、私はロボットやロケットが登場する漫画を描いていたため、「君の漫画には若さがない」と言われてしまいました。さらに「漫画家になるのは諦めて、うちで編集者として骨を埋めなさい」と言われたのです。
私が編集者として最初に担当したのは、少年画報社の『ワイルド7』(望月三起也)コミックスの編集です。この頃には、新書判のコミックスが出版されるようになっていました。望月先生は執筆が速かったため、週刊誌掲載時には原稿に写植が貼られていませんでした。当時は、亜鉛凸版の版面のフキダシ部分に穴を空けて、ネームの活字を組んだものを差し込んでいました。まだ写植が高価だったため、なかなか使うことができなかったのです。その後、漫画のコミックス化が当たり前となり、あらかじめ写植を貼り込むようになります。私は活版印刷の歴史の最後に立ち会い、活字と写植の両方を体験する事ができました。
あの頃の漫画事情といえば、まだ専用の原稿用紙がなかったため、上質紙やケント紙、画用紙を使っていました。紙の最大規格を全紙サイズと言いますが、これを八裁(8等分)してもB4サイズの原稿袋に入らないため、九裁(9等分)していましたね。神保町の紙屋で全紙を裁断してくれました。その紙を重ねて千枚通しで穴を開けて、それを目安に原稿の枠線を鉛筆で描いていきます。石森章太郎先生のところでも、アシスタントが穴開けをして枠線を引いた原稿用紙を使っていました。
石森プロ時代と『仮面ライダー』を振り返る
編集者を辞めてからは、ジョージ秋山先生、斉藤ゆずる先生、西谷祥子さんの元でアシスタントをしました。『柔道一直線』(原作:梶原一騎・作画:永島慎二・斉藤ゆずる)では、作品の後半部分を手伝っています。そんな折、同人仲間の細井ゆうじから「石森プロの仕事を手伝ってほしい」という話が伝えられました。1971(昭和46)年の夏だったでしょうか。ちょうどテレビで特撮の『仮面ライダー』が始まったところでした。石森プロへ行くと、これからテレビアニメや特撮の放送本数が増えるので、商品化の仕事を手伝ってほしいと言われました。それでハンカチやコーヒーカップなどのグッズにつけるキャラクターのイラストを担当することになります。
同じ年の秋、「テレビマガジン」(講談社)が創刊。『仮面ライダー』を全面的に取り上げることを目的とした児童向けの雑誌でしたが、当時の石森先生は月産500〜600ページもの原稿を描いていたため、ここで『仮面ライダー』を描く余裕はありませんでした。そこで若いスタッフに白羽の矢が立ち、石森プロに入ったばかりの私や細井ゆうじ、土山よしきさんらを集めてオーディションを行うことになったのです。
『仮面ライダー』の怪人やキャラクターを描く課題に、私はスケッチブック1冊分の絵を描いて持っていきました。「絵は下手だけど、やる気がある」と評価されて、私が『仮面ライダー』のコミカライズに採用されました。石森先生からいただくアドバイスには、いつも「お前は下手だから」という枕詞が付いていました。そのうえで「上手くなりたければ人の3倍描け」とも言われつづけました。「量を描かなければ上手くならない」というのが石森先生の信念で、私もその教えに従うことにしました。
石森章太郎先生は、コミカライズを担当する私たちに「シナリオ通りに描かなくていい」と言ってくれていました。一般に特撮やアニメのコミカライズは、シナリオに沿ってそのダイジェストをしていきます。ところが石森先生は私たちに「シナリオなんか使うな。自分でストーリーを考えないと勉強にならない」という助言をくださり、とても助かりました。おかげで『仮面ライダー』のキャラクターを借りながら独自のストーリーを作るなどの実験ができたわけです。

『テレビマガジン版 仮面ライダー』原作:石ノ森章太郎 作画:すがやみつる ©石森プロ

石森章太郎先生から言われた一言
「冒険王」(秋田書店)に『仮面ライダー』を描いていた時のことです。テレビのスケジュールが押してしまい、石森先生の怪獣のデザインが間に合わなくなったことがありました。そこで一回だけ怪獣をオリジナルで作っていいと言われて、私は怪獣のデザインとストーリーのアイディアを出しました。石森先生は私の努力を評価してくれて、「絵は描いていればうまくなる」「オリジナルのアイディアを考えられるかどうかで、生き残れるかどうかが決まる。お前は漫画家になれるよ」と言ってくれました。
周りの仲間が絵に力を入れていたのに対し、私はアイディアやストーリーで勝負しようと思いました。本好きの私はさまざまなSFやミステリを読んでおり、それに影響を受けてストーリーを作っていました。石森先生も“本の虫”で、よく本の話をした思い出があります。
『仮面ライダー』コミカライズ時代の私は多忙で、月産200〜300ページ描いていましたが、その合間を縫って年間300冊以上の本を読んでいます。徹夜もしましたが、時間を見つけては本を読んでいましたね。食事やトイレはもちろん、電車に乗るときも必ず本を持ち歩き、歩きながら本を読んでいて電信柱にぶつかったこともありました。
独立して、オリジナル作品の発表を始める
『仮面ライダー』のコミカライズは特撮テレビ番組との相乗効果で人気を得て、『仮面ライダーV3』『仮面ライダーX』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーストロンガー』も任せていただけることになりました。並行して『人造人間キカイダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』『がんばれ!!ロボコン』など特撮作品のコミカライズも、児童向け漫画誌で発表しています。4年にわたるコミカライズの経験を経て1975(昭和50)年末に結婚。これを機に独立しました。
低学年向けの雑誌にオリジナル作品を描き、月産200〜300枚ほどコンスタントに描くようになりました。ただ当時の低学年向け雑誌では、連載作品がコミックスになる機会がほとんどありませんでした。コミックス化したのは『ひみつ指令マシン刑事999』ぐらい。雑誌の原稿料だけで生活しなければならなかったため、その分多くの作品を描いていましたね。
1977(昭和52)年、私は『炎のサーキット』を「月刊どっかんV(ヴイ)」(学習研究社)で連載しています。池沢さとし先生の『サーキットの狼』のヒットで、世はスーパーカーブームを迎えていました。担当編集者から「すがやさん、メカ好きだから」と言われ、“クルマもの”の漫画の依頼を受けるようになりました。私は児童向けの漫画誌で“クルマもの”の漫画を描くにあたり、人気が獲れず苦戦したことがあります。主人公が車に乗ってしまうので、その活躍が低年齢の子どもに伝わりにくかったのかもしれません。読者の年齢層が高い少年誌や青年誌の方が、“レースもの”のドラマが作りやすいと思います。
同年連載した『ひみつ指令マシン刑事999』は、私が「テレビマガジン」で連載した初めてのオリジナル漫画となりました。刑事の主人公にピストルを持たせたりしましたが、コンプライアンスが厳しくなってきた頃のこと。配慮しながら描きました。
その後、同誌で『少年戦闘隊 オーロラ7』を連載。東西の戦闘機をたくさん描きました。空母の甲板でローラーが回り、戦闘機が着艦するシーンなどは、嘘だとわかっていても描きました。これは漫画なんだ、消える魔球と一緒なんだと。ただジェット機は身近な存在ではなかったため、あまり子どもには関心を呼ばなかったようです。もう少し手に届くところがないとダメなのでしょう。
企画書の大切さを痛感する
『ラジコン探偵団』は、『マシン刑事999』の編集担当からの依頼でした。「テレビマガジン」増刊号にオリジナル作品を2本入れるので、「ラジコン漫画を描かないか」と注文されたのです。私は“レースもの”で車を描いていましたし、アマチュア無線の仲間とラジコンで遊んでいたこともあって、「趣味の世界で仕事はしません」と最初は断っています。しかし、他の人が描いたら「こうすればいいのに」と思うはずだと指摘されました。この編集者の言葉が決め手となり、ストーリーを全てオリジナルにさせてもらう条件で引き受けたのです。
400字詰め原稿用紙50枚ぐらいのストーリーを小説形式で書いたら、一発で「オーケー」と言われました。一般に、漫画を描き始める前に「ネーム」という下描きを編集者に見せますが、この頃から私はそれを行なっていません。キャラクター設定やプロットをまとめた企画書を書いて、編集者に見せていました。その方が打ち合わせもラクだし、ボツになっても、コマ割りやセリフ・構図までを入れたネームの段階でのボツよりも、ダメージが小さくてすみます。企画書を提出して内容に問題がなければ、原稿を描いて渡すだけでした。当時、ネームの代わりに企画書を書く漫画家はほとんどいなかったのではないでしょうか。
石森プロで映像関連の企画書を山ほど見ました。映像は大勢のチームで作るため、その叩き台となる企画書がないといけません。どんなビジネスでも企画書からスタートするものですが、漫画家の場合は編集者と話し合えばよかった企画は口頭で伝えるだけでよかったんです。ただし意思疎通ができないことも多々あるため、コンセプトや対象読者をきちんと書いておくことも大切だと思い、企画書を書くようになりました。
オリジナルの作品が多くなり、楽しかった時期です。自分が読んだり見たりしてきたことを、アイディアに活かすことができました。しかし『ゲームセンターあらし』のスタートは、少し苦労しました。小学館の「コロコロコミック」編集者からの電話で「テレビゲームの漫画を」と言われて、既にタイトルも決まっていると伝えられました。さらに「表紙の校了は今日」だと言われ、即座にキャラクターのアイディアを出さねばなりませんでした。その中の1つが採用され、1978(昭和53)年と翌年に2本読み切り作品を執筆。2本目の作品は「ウルトラマン」シリーズを特集した増刊号での掲載でしたが、驚くべきことに人気投票で全体の8割の票を集めて1位となったのです。急遽、本誌での連載が始まることになりました。

『ゲームセンターあらし』©すがやみつる / 小学館
大人向け学習漫画を開拓する
この頃、仕事は多忙を極めていましたが、私はパソコンを買ってしまいます。買ったのはシャープのMZ-80Kという8ビットのパーソナルコンピューター。これ以降、私はプログラミングにのめり込んでいくことになります。『こんにちはマイコン』という学習漫画は、私の経験を生かして描いたものです。朝日新聞の書評で、イギリスで小学生向けのマイコン入門書が大人に読まれてベストセラーになっていることを知りました。そこで子ども向けの学習漫画を描けば、内容によっては大人も読んでくれるのではないかと思ったのです。
この頃、事務仕事のオートメーション化が急速に進み、初心者向けのプログラミング言語として「BASIC(ベーシック)」が広く使われるようになっていました。しかしBASIC入門漫画の企画書を小学館に持っていくと、「そんなもの描くなら、『あらし』のページを増やして」とけんもほろろ。ちょうど『ゲームセンターあらし』がアニメになって、人気の絶頂にありました。それでは「アスキーに持っていきます」と言うと、編集長が類書の実績を調べてくれました。NHK 教育テレビ(現・Eテレ)の『マイコン入門』という番組のテキストが、30万部程度出ていると判明し、やっとゴーサインが出ています。160ページほどの描き下ろしで、マイコンの仕組みからプログラムの基本までを紹介しています。
この本が好評で、版を重ねたことから2巻目の刊行が決定。テニスゲームの作り方を紹介しています。学習漫画に味をしめた私は、それ以降大人向けの学習漫画を手掛けるようになったのです。『ゲームセンターあらし』はよく売れていましたが、アニメの放映が終わったら人気は終わると思っていました。商業雑誌の世界は人気が出るか否か、例えるなら「0」か「100」の世界ですが、学習漫画であれば細々と長く描けると思ったのです。
さまざまな入門書を描きました。講談社で出した株の入門コミックは、60万部ほど売れました。出版界の流通事情として、通常コミックスは雑誌扱いされます。ところが担当編集者が、大人向けの学習漫画ということで一般書籍と同じ扱いにしてくれたのです。その当時コミックスは1万部単位でないと増刷できませんでしたが、この方法なら1千部単位で増刷できるからです。「細く長く売りましょう」という編集者の言葉が嬉しかったですね。おかげ様で3年にわたり、紀伊國屋書店新宿本店のビジネス書部門のベスト10に入ることができました。

『まんが版 こんにちはマイコン』©すがやみつる / 小学館
小説家としてデビュー
その後、パソコン通信ネットで、ミステリの小説を連載していたところ、それを読んだ大手出版社の文芸担当編集者が声をかけてくれたのです。日本とアメリカを舞台にした国際的なサスペンスものでした。しかし、その編集者が企画を出すと、上司がカタカナのコンピューター用語に抵抗を示し、この企画はなくなってしまいました。
それでもプロの文芸編集者に自作小説が評価されたことに気を良くして、知り合いだった有楽出版社の峯島正行社長に小説の原稿を持ち込みました。「時間が取れたときに読むから」と言われたのですが、返事はまるでありません。それでもしつこく新作の原稿を持ち込んでいたら、4作目のトラベル・ミステリを持ち込んだあとに、「よく書けていて驚いた」という電話をもらいました。実は、それまでの3作は、「どうせ漫画家の手慰み」と思って読んでくれておらず、4作目になって「あまりしつこいので読んでみた」とのこと。トラベル・ミステリとして作品を評価してくれましたが、新人のノベルス刊行は難しいと言います。その代わり「架空戦記」というジャンルを書いてみないかと提案されました。戦争について「詳しいか」と尋ねられた私は、漫画の描きはじめが航空戦記ものだったことや『少年戦闘隊オーロラ7』を描いた経験があることを伝えた結果、近未来を舞台にした架空戦記を執筆することになりました。
1994(平成6)年、実業之日本社の子会社である有楽出版社から『漆黒の独立航空隊』を刊行し小説家デビュー。近未来のロシアで起きた内戦を舞台に、日本製のステルス戦闘機を登場させました。この作品が増刷されたのをきっかけに、他社からも依頼が来るようになり、架空戦記を中心に、レースものやユーモア・ミステリも書いて、合計64冊の小説を上梓しました。
教育メソッドを学ぶため大学へ進学
2000(平成12)年を過ぎたあたりから、「大学で漫画を教えて欲しい」という相談が、方々から来るようになりました。京都精華大学で、竹宮惠子先生が教鞭をとられて成功しているのを知った各地の大学が、漫画を教える学科やコースを作りはじめ、私のところにも教員の誘いがかかったわけです。しかし私は高校卒業と同時に漫画の世界に飛び込んでいるため、“大学”という世界を知りません。そこで2005(平成17)年に早稲田大学に入学します。私が54歳の時のことでした。
ちょうど2003(平成15)年に、早稲田大学がeスクールという通信制の大学を作っていました。4年間の学業でやりがいを感じた私は、大学院の修士課程に進みました。博士課程まで行く予定だったのですが、博士号まで取ると63歳になってしまいます。大学で教えられる時間を考えると、博士課程に進む余裕はなかったわけです。60歳で修士課程修了し、早稲田大学の教育コーチという役職と京都精華大学マンガ学部の非常勤講師を経験した後、京都精華大学マンガ学部の教授に就任しています。
漫画のオーソドックスな教育方法として“徒弟制度”がありますが、それはいわば専門学校みたいなものです。しかし大学に行くならば、メソッド(理論)が必要だと思いました。例えば、芸術大学で油絵を描くのであれば、デッサンやクロッキーなどの基礎トレーニングの蓄積、音楽でいえば初心者必修の教則本として「バイエル」があります。漫画でも、そうしたメソッドに基づいたカリキュラムを作っていかなければなりません。そこで漫画を教えるために、大学では教育工学という分野を専攻して“教え方”を学びました。
「インストラクショナルデザイン」という、アメリカから来た考え方があります。日本語では「教授設計」と呼ばれますが、学習の自由度を保ちながら、効率的に高い学習効果を生み出すための学問です。教育に「効率」という概念を持ち込むと、「魂がこもっていない」と言われてしまいそうですが、実に合理的な考え方だと思います。長年コンピューターの世界に触れてきたこともあって、私にはこちらの考え方が腑に落ちるものでした。大学の卒論には学習漫画の作り方を、修士論文ではオンラインで漫画を学ぶメソッドを研究し、まとめています。
漫画もITも可能性は無限大
漫画は、読むのに時間がかからないから効率がいい。短時間で内容がわかる点で、コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスともに優れていると思います。私はその利点を実証するための実験をして、大学の論文にしました。2種類の漫画をネットで実験協力者に読んでもらい、読み終わるまでの時間計測や読後の理解度テストの採点を自作のCGIプログラムで処理しました。短時間で読了でき、同時に内容が理解される漫画の方が、効率的に理解されていることになります。大学院では、実験の分析に統計学を使うため、分析用のプログラムを作りました。このプログラムは、いまも「こんにちは統計学」という名前のWebで公開しています。
2024年には、確定申告に著作権法、「コロコロコミック」時代の思い出を綴ったエッセイなど3冊の本を出しました。2025年3月には、『まんが Excelで統計学入門』(技術評論社)という新刊が出ました。漫画で統計学を解説する作品ですが、ネームは私が担当し、絵は別な方にお願いしています。漫画やプログラミング、統計学など、私がこれまで培ってきたノウハウが結晶となって嬉しく思っています。
私は漫画家ではありますが、パソコン通信の時代からインターネットの時代まで、肌で体験し続けてきました。現在は、漫画もフルデジタルで描き、生成AIも活用しています。漫画の可能性は無限です。これからも私なりの作品作りを通し、皆さんに楽しんでもらいたいと思っています。
取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略