【漫画家のまんなか。vol.29 ラズウェル細木】「30年間、読者と一緒に漫画を作ってきた」。『酒のほそ道』連載1500回記念、ラズウェル細木インタビュー!

トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。今回は、漫画家・ラズウェル細木先生にお話を伺います。
ラズウェル先生の代表作『酒のほそ道』は、美味しい酒と肴(さかな)が満載。1994(平成6)年のスタートから現在に至るまで、 30年余り連載されている人気作品です。この春には、連載1500回の記録を達成しています(「週刊漫画ゴラク」〈日本文芸社〉 2025〈令和7〉年2月14日号)。
まさにグルメ漫画の金字塔と言うべき作品ですが、その創作は友人や編集者など、人との出会いに支えられたものだったと言います。漫画家としての画業と、これからの展望までをお聞きします。
▼ラズウェル細木
1956年、山形県生まれ。早稲田大学在学中に漫画研究会に所属し、卒業後イラストレーターとして活動する。
1983年、竹書房に勤める友人の勧めで応募した麻雀漫画でデビュー。1994年から「週刊漫画ゴラク」で『酒のほそ道』の連載を開始。現在に至るまで
30年以上続く長寿グルメ漫画となる。2016年、同作をベースにしたグルメトーク番組『酒のほそ道〜今宵も一杯やりますか〜』が
BS朝日で放映されている。『大江戸酒道楽~肴と花の歳時記~』『美味い話にゃ肴あり』『う』『文明開化めし』など、代表作が多数ある。
2010年、山形県米沢市観光大使就任。2012年、『酒のほそ道』などの作品で第16回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。酒と肴とジャズをこよなく愛する人柄で、多くのファンを獲得している。

漫画を読むのも、模写をするのも大好きだった
私の漫画初体験は、幼稚園ぐらいのことだったでしょうか。ほかの漫画家の皆さんと同じように、手塚治虫先生の作品が私の原点となっています。私の父はよく出張をしていましたが、お土産として漫画の本を買ってきてくれることがありました。ある日、手塚先生の『0(ゼロ)マン』の単行本を買ってきてくれたのですが、これがたまらなく面白かったんです。
当時の漫画はまだ月刊誌の時代で、私は「少年画報」(少年画報社)や「冒険王」(秋田書店)などを読んでいました。月刊ですから、1か月の間ずっと同じ漫画を繰り返し読むわけです。ひとつの漫画をじっくりと読む――考えてみれば、こんな贅沢な話はありません。なんともいい時代だったな、と思います。小学校に上がる前から、漫画は常に私の傍らにある存在でした。
幼い頃から漫画を読むのが好きでしたが、模写をするのも好きで、せっせと描いていました。ただ、まだ幼稚園の子どもでは、プロの作家の漫画をそっくりに描くのは大変です。もっぱら描く楽しさを味わいながら、描いているという感じだったのでしょう。
1959(昭和34)年、「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)が創刊。 1960年代の漫画界は、月刊誌から週刊誌への移行期にありました。私も小学校高学年あたりから、「週刊少年マガジン」を読み始めました。『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)、『あしたのジョー』(原作:高森朝雄、作画:ちばてつや)、『ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)など、当時の「週刊少年マガジン」には人気作が目白押しだったのです。
小学校6年生になったあたりでしょうか。石森(現・石ノ森)章太郎先生の『マンガ家入門』(秋田書店)という漫画の入門書が出ました。正編と続編が1冊ずつ出ていて、子どもにとっては安い買い物ではありませんでしたが、お小遣いを貯めて買いました。頑張って揃えた甲斐があったと思います。それまでは鉛筆で漫画を描いていましたが、この本には鉛筆の下描きにペン入れするまでの工程が書いてありました。私はとにかく夢中になって読みました。プロの漫画家がどのように原稿を描いているのかを、この本で初めて具体的に学んだのです。
この本の影響で、漫画らしいものを描き始めるようになります。いわゆる落書きじゃない、原稿用紙にきちんとコマを割って描いたものです。実際にペンにインクをつけて、ペン入れというものを初めてやりましたが、それはまだスタイルだけ。きちんとしたストーリーなぞは考えていません。恰好いいから真似をしている感じです。
石森先生の『マンガ家入門』に書かれていたのは、漫画のテクニックだけではありません。プロとして生きていくために必要な、知恵や心構えのようなものまで書かれていたんです。読み物としても非常に面白くて、ためになる本なんですね。石森先生の作品は、漫画もたくさん読んでいますが、『マンガ家入門』を一番多く読んでいたと思います。
山形から京都、東京、そして再び山形へ
我が家は、父の仕事の関係で引っ越しの連続でした。1956(昭和 31)年に山形県米沢市で生まれた私は、生後3週目にして京都へ引っ越しています。父の会社は地元の伝統工芸品/米沢織を扱っていましたが、京都に事業を拡大することになったのです。次の引っ越しは、私が 3歳の終わりぐらいだったでしょうか。今度は東京の下町・台東区への引っ越しでした。そして私が 4歳か5歳になったあたりで、米沢市に再び戻ってきました。
私が小学校1年生の時に、米沢市内でもう1回引っ越しをしていますが、それから大学生になるまではずっと同じ場所に住んでいます。同じ所にいると、自然と友人も増えていきます。小学校高学年に漫画を描き始めると、近所に住んでいた漫画好きの友だちとも一緒に描くようになりました。
ただ漫画と言っても、まだ本格的なものではありません。初めてラストまで完結する漫画を描いたのは、高校生になってからです。私が入学した山形県立米沢興譲館高校は、山形県でも伝統のある学校として知られていました。米沢藩の藩校/興譲館の歴史を受け継ぐ学校だったのです。ちなみに漫画家のますむらひろし先生も、興譲館高校の卒業生です。ますむら先生は4学年上のため、在学中はご一緒する機会はありませんでした。
しかし私は、ますむら先生の作品と思わぬかたちで出会っています。この頃の「月刊漫画ガロ」(青林堂)には、安部慎一、鈴木翁二、古川益三など当時新進の先生方が登場。新しい時代に突入していました。それまで「 COM」(虫プロ商事)に夢中になっていましたが、この雑誌は休刊してしまいます。そんな時に「月刊漫画ガロ」を見て、心を鷲掴みされたのです。
この雑誌には、ますむらひろし先生の作品が入選していました。『ヨネザアド幻想』を読んだことから、ますむら先生が米沢の出身者であり、高校の先輩だと知ったのです。ますむら先生は独創的な作品を発表し、漫画界の先頭を走っているように見えました。同じ米沢出身者の活躍を誇らしく思ったのを覚えています。
早大漫研で楽しんだ漫画ライフ
高校生活は充実していましたが、一方で「東京の高校には、漫画研究会がある」と聞いて、うらやましく思っていました。「自分たちもやってみたい」という思いはありましたが、伝統校ならではの難しさがありました。
ちょうどその頃、ロック好きの面々が軽音楽部を結成しようとしたら、学校の理解が得られなかったということがありました。それが漫画であったら、風当たりは一層強くなるはずです。漫画に対する世間の目はまだ厳しいものでした。漫画研究会の結成が無理なことは、言うまでもなかったのです。
そこで私は、「大学に入ったら絶対に漫研に入ろう」と心に決めました。当時、早稲田大学の漫画研究会は、園山俊二、福地泡介、東海林さだお先生たちを輩出し、名が知られていました。私は早稲田を目指しますが、そう簡単に受かるはずがありません。それまで、好きな漫画とジャズに明け暮れていたわけですから――。
私は上京して、1年間の浪人生活の末に早稲田大学に入学。入学するとすぐに、漫研に入部します。私が入った頃の早大漫研は、1年生から4年生、留年している者まで合わせると 50人くらい在籍していたと思います。今は壊されていますが、第一学生会館という建物があって、そこにサークルの部室がありました。
部室に行くのは週に3日程度。同人誌は春と秋の2冊と、学園祭に1冊を出していました。活動と言っても、部室で漫画のよもやま話をするのがほとんど。それでも同人誌の時期が来ると、掲載に向けて真剣に漫画に取り組む日々を送りました。早大漫研で鍛えられたおかげで、今の漫画家生活があると言っても過言ではありません。
今の読者の方々は、漫画と言えばストーリー漫画を想起されることでしょう。しかしかつての漫画界では、カートゥーンと呼ばれる1コマ漫画や、4コマ漫画が主体だった時代もあったのです。私が在籍していた頃の早大漫研は、伝統的な1コマ、4コマを受け継ぐグループと、当時新興だったストーリー漫画を描くグループに分かれていました。ストーリー漫画もギャグ漫画や少年漫画、少女漫画など、それぞれのジャンルごとに好きな人同士が集まっていたのです。
「島耕作」シリーズ、『人間交差点』『黄昏流星群』などで人気となった弘兼憲史さんは、私より10歳ほど上の先輩です。物語性のある作品の名手ですが、彼が大学に在籍していたあたりからストーリー漫画が力をつけてきた感があります。それは早稲田に限ったことではありません。明治大学も漫研の活動が盛んで、かわぐちかいじ先生などのスター作家を輩出しています。
伝統のある早大漫研ですが、OBとの交流は意外と多くはなかったです。それでも私が3年生の学園祭の時に、東海林さだお先生、園山俊二先生に展示へのご参加をお願いしました。大々先輩に当たる先生方ですが、気さくに色紙に応じてくださり、原画を貸していただきました。園山先生は『がんばれゴンベ』『ギャートルズ』などをお描きになられた方ですが、その作品の通り大変お優しい方でした。
いずれにしても、楽しい時代でした。私は大学生生活や、漫研ライフを満喫していたと言って良いでしょう。私は漫研の活動のほかに、雑誌への投稿も開始。ちょうどこの頃、「月刊漫画ガロ」に嵐山光三郎さんの企画『真実の友』が連載されるようになっていました。その中に「五行小説」というコーナーがあって、 13字×5行の短い小説を募集していたんです。漫画ではありませんが、私は石山河豚(フグ)というペンネームで2回ほど入選しています。
同級生がもたらした漫画家の道
大学卒業後は就職もせず、漫画家にもならず、イラストレーターとして活動していました。というのも、学生時代にアルバイトで経験した漫画家のアシスタントが、実にしんどいものだったのです。大好きだったはずの漫画ですが、これを職業とするのが嫌になってしまいました。大学4年生の時に「編集者になろう」と思って、4社ほど出版社の入社試験を受けましたが、いずれの会社にもご縁がありませんでした。
「どうせなら絵の描ける仕事を」と思い、イラストレーターの道を選んだのです。同じように就職していない仲間で集まり、イラスト事務所を立ち上げました。幸い時代は好景気。仕事を選ばなければ、単行本の挿絵や小さいカットなどの仕事がいくらでもありました。
そんな私が、再び漫画の道に戻っていくことになります。早大漫研の同級生から声が掛かってきたのです。同級生は麻雀漫画の出版のパイオニアであった竹書房で、漫画編集者になっていました。新人漫画賞を担当していた彼から、「応募作が少ないので、1本描いて応募しろ」と言われたのです。
私は20数ページの漫画を描いて応募しました。“ラズウェル細木”という名のキャラクターが、麻雀をするというギャグ調の漫画です。ちなみに、ラズウェル細木というペンネームは、漫研時代から使い始めていました。トロンボーン奏者のラズウェル・ラッドと、お世話になった編集者の名前からいただいたものです。
結局その漫画賞では大賞作は出ませんでしたが、私の漫画は佳作に入賞。賞金10万円をいただきました。同級生にひと晩で全部飲まれてしまいましたがね(笑)。でも、その入賞がきっかけとなって、竹書房から漫画の依頼が来るようになります。そこで定期的にイラストの仕事をしながら漫画を描くという、掛け持ちの生活が始まったんです。麻雀漫画の依頼でしたから、たしなむ程度に麻雀はやりました。でも、それほど好きになることができなかったんです。そんな作者の想いが読者に伝わったのでしょう、人気はサッパリでした。
しかし商業誌に何本かの漫画が載ったことで、ほかの出版社の漫画誌からも声が掛かるようになりました。日本文芸社の「週刊漫画ゴラク」も、そのうちのひとつでした。
試行錯誤で生まれた『酒のほそ道』
「漫画ゴラク」誌から仕事を依頼されたものの試行錯誤の連続でした。4コマ漫画を描いてみましたが、麻雀テーマではないこともあって、伸び伸びと描くことができました。たまたま飲食の話に興味があったので、描いてみたら評判が良かったのです。
「漫画ゴラク」で初めて担当してくれた編集者の方が、「酒の話でも始めますか」と提案してくださって、相談しながら描き始めたのが『酒のほそ道』です。飲食関連の題材を取ると、気分が乗って描けるような実感がありました。それをご覧になっていらしたのが、当時の「漫画ゴラク」編集長。『酒のほそ道』を気に入ってくださって、コンスタントに掲載できるよう応援してくれたのです。
『酒のほそ道』の連載が本格的に始まったのは1994(平成6)年のことです。やがてコミックスが発売されるようになりました。“乗って描ける”という思いが、後押ししてくれたのでしょうか。少しずつ読者もついて来てくれるようになりました。
『酒のほそ道』の1巻目が発売された時、とても嬉しかったのを覚えています。それまでにもジャズをテーマにした『ラズウェル細木のときめきJAZZタイム』や、育児漫画『パパのココロ』などでコミックス化は経験していましたが、『酒のほそ道』の単行本は格別でした。

『酒のほそ道』©ラズウェル細木/日本文芸社(1巻より)
連載1500回を迎えた『酒のほそ道』
『酒のほそ道』の主人公・岩間宗達は、とある企業の営業マン。仕事帰りの一杯が何よりも楽しみという男です。実はコミックス第1巻から第3巻あたりまでは、カバーに主人公の宗達を描いていません。コミックスとしてではなく、グルメエッセイ風に売ろうとしていたのでしょう。
そういう時期もありましたが、次第に宗達は人気キャラクターとなっていきました。じわじわと読者が増えていったような印象です。週刊誌での連載ではありますが、6ページ程度の読み切りというのも自分のペースに合っていたと思います。この春連載1500回を迎え、コミックスも56巻目が出版されました。
これだけ描いているとマンネリ化するものですが、飲食のテーマは題材的にネタが無尽蔵です。本当にいいジャンルに当たったと思います。何よりも「漫画ゴラク」の編集長をはじめ担当編集の方々が根気よく載せてくれたことが大きいと思います。 2021(令和3)年に、「漫画ゴラク」で先輩格にあたる『ミナミの帝王』(原作:天王寺大、作画:郷力也)が、 1500回を迎えたのを見て「すごい」と思っていた私です。同じ回数に到達できたのは、編集部の辛抱と、何よりも読者の応援の賜物です。

「週刊漫画ゴラク」2025年 2/14号
長寿作品ならではの楽しみ方がある
『酒のほそ道』のタイトルは、松尾芭蕉の『奥の細道』がヒントになっているのは言うまでもないでしょう。主人公の宗達に俳句を詠ませることに決めてから、自然に浮かんできたタイトルです。ところで宗達の俳句ですが、連載を始めたばかりの頃は真剣に考えていました。芭蕉の句を参考にしたこともあります。しかしいくら考えても、いい句が生まれるとは限りません。今ではひらき直って、ひらめきで詠んでいます。
宗達の句を“漫画のシメ”に使うようになったのは、何よりも季節感を大事にしたかったからです。酒や料理の世界も、季節が大きく関わっています。春夏秋冬、四季によって酒の飲み方も、酒の肴、食材も変わる。
日本人は季節ごとに、旬のものを食べます。例えば春にはタケノコ料理、初夏には鰹、秋には焼きサンマといった具合にです。毎年繰り返す食の伝統――一見変り映えしないように思えるのですが、日本人にはそのマンネリを“良し”と思えるところがある。定番料理を楽しみにしているところがあるのです。
私の『酒のほそ道』も同じで、長期連載ならではのマンネリが、あまり気にならないジャンルだと思うのです。そもそも、酒飲みの日々も毎日がマンネリですからね(笑)。宗達が夕方になると酒を飲む――それだけで大いなるマンネリだと思いますが、それが許される作品なのです。ドキドキハラハラの冒険もいいかもしれませんが、お話が分かっている作品ならではの楽しみ方があると思います。

『酒のほそ道』©ラズウェル細木/日本文芸社(56巻より)
文化の源流を江戸時代にたどる
日本には四季折々のものを楽しむ食文化があり、私も旬の食材を漫画に取り入れるようにしています。しかし今は世界規模で異常気象が深刻さを増しています。
私が世話になっている青森県の宿は鯖寿司を売りにしているのですが、ここへ来て鯖がとれないと言うのです。秋田県名物のハタハタも一時期不漁になったと聞きました。このように不漁にあえぐ漁師さんがいる一方で、季節外れの魚の豊漁に驚く漁師さんがいるといった具合なのです。
旬の魚がとれないようになったら、食卓から季節が消えてしまいます。これは日本の食文化の危機であり、同時に『酒のほそ道』の危機でもあると思っています。
さて漫画のお話に戻りますが、『酒のほそ道』の成功もあって、ほかの出版社からもグルメ漫画のご依頼をいただくようになりました。私は、酒のテーマに時代物の要素をプラスした漫画を描いています。『大江戸酒道楽~肴と花の歳時記~』(リイド社)です。江戸で長屋住まいをしている大七とお富久の夫婦のお話ですが、大七が酒の*棒手振りをしている設定なので酒の話題には事欠きません。
(*棒手振り=ぼてふり。酒、魚などをかついで売り歩く人のこと)
ただし江戸時代が舞台となれば、その食事は現代人に馴染みがないものとなります。年中行事などを参考に、一つひとつ学びながら分かりやすく読者に伝える必要がありました。落語に、女房を質に入れてまで初鰹を食べようとする男の話が語られています。鰹は“江戸の初物四天王”のひとつと言われましたが、そのほかには鮭、茄子、初茸が挙げられています。江戸の人たちは初物を珍重していたので、値段も吊り上がったと言います。庶民の手が届くものではなかったので、大七さんは半身の鰹で我慢する――というところで「初鰹」のお話ができ上ります。
「山くじら」のお話では、歌川広重の『名所江戸百景』より「びくにはし雪中」の浮世絵を参考にしています。時には浮世絵の模写もしなければならず、浮世絵師の力量に感嘆したのも一度や二度ではありません。ところで、山くじらって何かご存じですか。仏教伝来とともに獣肉を食することがタブーになった日本。江戸時代には滋養強壮食、薬として食べられていました。山くじらとは猪の肉のことです。
私の描く漫画は、あまり描き込みをしないシンプルな絵柄です。その分、線の味わいや画面の余白を大切にしながら描いている。その点で、浮世絵から多くを学んでいます。江戸の画壇を飾った絵師たちの作品を見るのも大好きです。円山応挙の『雪松図屏風』は国宝に指定されている名作ですが、松の枝に降り積もる雪を白く塗り残しながら描いてあります。
日本画の絵師は本当にすごいと思います。描く前に、頭の中にイメージが完成していなければ、こんな描き方はできません。そうやって考えてみると、私が描いている漫画も、普段飲み食いしているものも、全てが江戸の伝統の延長線上にあるように思うのです。

『大江戸酒道楽~肴と花の歳時記~』©ラズウェル細木/リイド社
読者と一緒に歩んでいきたい
同じくリイド社で発表した『文明開化めし』では、明治維新前夜の江戸・横浜を舞台にした物語を描きました。開国することで海外の食文化が入ってくる。酒だって例外ではないわけで、そこに笑いとドラマが生まれます。
牛鍋はいつ、誰が最初にこしらえたのかなど、外来の食文化への興味はつきません。歴史を学ぶのには苦労しますが、楽しい作業でもありました。漫画家はただ絵が描ければいいというものではありません。知らないことを知る喜びを、感じながら描いているのです。
私は『酒のほそ道』で、酒と肴という自分なりのテーマを見つけました。作品の内容は、1500回の連載を通して大きく成長してきたと思います。その傍らにはいつも、読者の存在がありました。私と読者が一緒になって作り上げた世界だと思うのです。
読者が応援してくれる限り、漫画を描き続けたいと思います。『酒のほそ道』はもちろんですが、ほかにもチャレンジしたいテーマはたくさんあります。どうぞ応援してください。
私の「最後の晩餐」のメニューですか? う~ん、難しい……。でも最後の晩餐になるのであれば、自分で握ったハマグリ寿司を食べたいですね。私は握り寿司を趣味にしていて、いろいろなものを握るのですが、ハマグリが最高に美味いんです。生のハマグリを剥いて取り出し、2分ほど湯がきます。それを調合した調味液に一晩か二晩漬けるという一手間をかけて握ります。手間が掛かる分、美味しいんですよ。ただし、作るのに一晩、二晩かかるのでは、食べる前に地球は壊滅してしまいますね(笑)。
取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略
取材協力=旬味ふじよし