漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.21 夜明け前
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.21 夜明け前
話は遡り、1979年前後の「週刊漫画サンデー」(以下、略称のマンサン)は、従来のナンセンス漫画誌から劇画誌への編集方針変更に揺れ動きながらも本格的に劇画誌へと脱皮し始めた時期だったのではなかろうか。この時期はまた、編集長の交替もあり、徐々にではあるが連載陣の顔ぶれにも変化が出てきた。マンサンにとって新しい漫画家の登場である。かつて、読み切りゲストとして登場した作品をみると、その作品からヒット作の原点を見ることができる。
たとえば、1979年の1月2日特大号には、畑中純氏の『クマゴローの性春』が1回読み切りゲストとして登場している。たぶんこれが畑中氏のマンサンにおけるデビュー作品ではないかと思われる。編集部としては、一度掲載して読者の反応を見ようということだったかもしれない。そして、編集長が交代したこの年の5月29日号から、あの昭和の名作『まんだら屋の良太』の連載がスタートした。
また、土山しげる氏が、1月9日号に『エスカーゴ』というグルメ漫画を描いていた。いまやグルメ漫画には欠かせない漫画家だが、その原点ともいうべき作品をマンサンでみつけた時、ちょっとうれしかった。私が土山氏を担当していた頃は、グルメものではなく、ちょっとコメディがかった作品が多かった。学園を題材にした『うわさの先公』、鳶職の世界を描いた『めいわくトンビ』などがそれだった。しかし、何と言っても土山氏の名を世に高めたのは食べ物を扱った作品。主にマンサンのライバル誌だった「週刊漫画ゴラク」が多いのだが、『喧嘩ラーメン』『食キング』『食いしん坊』など、作品を挙げればきりがない。また、男のひとり飯を描いた、久住昌之氏原作の『野武士グルメ』(幻冬舎刊)が評判になった。
そのような意味で1979年にマンサンに描いた読切『エスカーゴ』は、土山氏の未来を予知した作品だったと思う。私はそれに気づかなかった。
この年、小島剛夕氏の『料理人』のあと土方歳三を題材にした作品『試衛館の鬼』(原作・昂すまる)の連載もスタートしている。小島氏と言えば双葉社の週刊漫画アクションで『子連れ狼』(原作・小池一夫)のヒットを飛ばしていた人気漫画家。しかし、小島氏にはある苦い思い出がある。
私が校了のアシストをしている時のことであった。印刷所から急かされて入稿作業に追われていた時のこと。小島剛夕氏の原稿が届くや、私はアルバイトの学生と一緒に、あらかじめ用意してあった写植文字を原画のフキダシに貼る作業に専念していた。一方、扉絵の処理はデザイン・入稿専門のスタッフがおこなった。まず扉絵にトレーシングペーパーをかけ、その上から、タイトル、キャッチフレーズ、連載ナンバー、作家名などを絵柄にあわせバランスよく貼り合わせるのだが、一番センスが問われる作業だ。このときトレーシングペーパー下の絵柄にかかる部分については、文字が読めるように指定をしなければならない。たとえば、タイトル文字が絵のスミの部分にかかる場合は、文字スミのせ0.1ミリ幅で白くくり、というように。ところが、忙しかったのだろう。作家名の部分だけその指定を怠ってしまったのだと思う。それでも入稿の折には、誤字脱字はもちろん、扉絵の指定部分についても校了班がチェックしなければならないので、入稿時にそのミスは防げたはずなのだが、それがスルリと通りぬけてしまった。私を含めふたりでチェックしていたにもかかわらず、である。
そして、月曜日の朝には、火曜日発売の見本が届いた。そこで初めて小島剛夕氏の名前が落ちていることに気づいた。しかし時遅し。校了責任者はひたすら謝っていたが、私もしばらくは生きた心地がしなかった。作家名が載っている絵柄の部分はスミ。そこに名前をスミのせでは闇夜のカラスである。文字を白でくくるか白抜きしていれば何の問題もなかったのだが、後の祭りであった。この時ほど校了の怖さを痛いほど思い知ったことはない。その後、この件に関して小島氏との詳細なやりとりについては、まだ駆け出しの私には伝わってこなかったが、大きな気持ちで私たちのミスをゆるしてくれた、と聞いている。恥ずかしい限りであるが、あらためて小島氏の人間の大きさに感謝した。
『流れ板竜二』より ©笠太郎・牛次郎
話は戻り、そのほかに編集部が力を入れていた漫画家に、ほんまりう氏がいた。1979年新年号よりスタートした本格ボクシング劇画『挑戦者』(原作・笠原和郎)は評判を呼んだ。しばらく後に『それぞれの甲子園』という名作を生んだ。また当時、週刊平凡パンチで連載していた『喧嘩道』のヒットで評判の笠太郎氏が読み切りゲストで登場していた。後に板前もの『流れ板竜二』や『板前鬼政』のヒット作をマンサンから生み出した。
1979年は、試行錯誤しながらも新たな力を予感させるマンサンの新たな夜明け前だった。(つづく)