忘れてはならない戦争の悲劇。この夏読みたい、戦争マンガ新旧傑作選
昭和20(1945)年8月15日正午――。ラジオから流れる玉音放送によって、日本の敗戦が知らされました。今年(2024年)は、それから79年目に当たります。
戦争を知る世代の高齢化が一段と進む中、私たちはどのように記憶を語り継いでいけばよいのでしょうか。
来年、80回目の終戦記念日を迎える前に、読んでおきたい戦争マンガをご紹介します。そこには、兵士として前線に出征した人々から、銃後を支えた人たちまで、様々な体験が描かれています。多様な視点から、戦争の記憶を紡ぐマンガ作品を集めました。
生きては帰れない特攻兵の“食”を描く
特攻の町・知覧(ちらん)にある小さな食堂。そこには特攻兵となり、出撃してゆく少年飛行兵が集まっていました。
その食堂の名前は「幸福食堂」。出征した夫の留守を預かり、食堂をまかなうのは、嶋田 智(さとし)と富子の夫妻。夫が出征してからは、妻の富子が女手一つで食堂を切り盛りしています。
幸福食堂で提供されるのは、卵どんぶりにつっきゃげ(さつま揚げ)、薩摩汁など、心のこもった品ばかり。『戦争めし』のマンガ家・魚乃目三太が描く、優しくて儚い物語を紹介します。
「特攻」とは、爆弾を搭載した軍用機や小型の水上艇などを用いた、体当たり攻撃を行う作戦のことです。戦局が悪化した太平洋戦争末期に、日本陸海軍で行われています。生きて帰ることのない戦法によって、多くの若者の命が奪われました。
特攻機が向かったのは、連合軍艦艇が集中していた沖縄本島周辺です。鹿児島県や宮崎県などの南九州や、当時日本の統治下にあった台湾などの基地から出撃しています。中でも鹿児島県の知覧基地は、本土最南端にあったことから、陸軍最多の出撃機を送り出しました。
食べることは、生きること――。『戦争めし』は、過酷な戦時下において、“食”に小さな希望を見出した人々を描く、感動の作品です。同作の著者・魚乃目三太が、特攻のテーマに挑んだのが『ちらん―特攻兵の幸福食堂―』。特攻兵が出撃前に食べた食事を描いて、忘れてはならない戦争の記憶を伝えています。
『ちらん -特攻兵の幸福食堂-』©魚乃目三太(秋田書店) 1巻P026_027より
昭和16(1941)年8月、知覧に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が作られることになりました。芋畑、茶畑をつぶして大きな滑走路が姿を現し始めると、陸軍の上級士官が幸福食堂へ来店。
上級士官から店の名物を問われた富子は、“トンコツ”と“卵どんぶり”と答えて料理を出します。トンコツは、豚のあばら骨を醤油で炊いた南九州の郷土料理。その美味しさに感心した上級士官は、幸福食堂を陸軍指定食堂にしたいと依頼します。こうして幸福食堂を営む嶋田家の運命は大きく動き始めました――。
幸福食堂の嶋田富子のモデルとなったのは、知覧で富屋食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさん。戦局の悪化で食糧が不足しても、私財を投げ打って特攻兵を支えたという実在の人物です。せめてもの慰みにと、お袋の味で特攻兵の胃袋と心を満たした「特攻の母」。魚乃目三太は、その思いがこもった料理を描くことで、悲劇の歴史を後世に語り継いでいます。
日常の上に爆弾が降り注ぐ非日常
『この世界の片隅に』は、広島県の軍都・呉(くれ)を舞台とした作品です。昭和9(1934)年から終戦直後の昭和21(1946)年まで、一人の女性の営みを時間の経過とともに追っています。
著者・こうの史代は、『夕凪の街 桜の国』で広島に落とされた原爆をテーマにして、大きな評価を得ました。その後に挑んだ『この世界の片隅に』では、「そこにだって幾つも転がっていた筈の『誰か』の『生』の悲しみやきらめき」を、マンガに描くことで知ろうとしたと「あとがき」に著しています。
戦争の激化とともに生活の制限は厳しくなっても、掃除や洗濯、食事の支度などの日常は変わらず続いていきます。こうの史代は、今と変わらぬ普通の人々を描くことで、戦争の意味を読者に考えさせています。
浦野すずは、想像力が豊かで絵を描くのが大好きな女性。広島湾に面した江波(えば)で、海苔養殖業を営む家で育ちました。
昭和19(1944)年2月、すずは住み慣れた広島市から離れて、呉に嫁ぐことになりました。結婚の相手は、北條周作という青年です。周作は、海軍軍法会議に勤務する録事(ろくじ、書記)。彼の父親の圓太郎も、呉海軍工廠に勤めています。
工廠(こうしょう)とは、軍需品を製造・修理するための工場のこと。海の守りを固めるため、大日本帝国海軍は日本列島の4か所に鎮守府(ちんじゅふ)を置きました。呉は、横須賀、佐世保、舞鶴と並ぶ、海軍の一大拠点として栄えていたのです。
『この世界の片隅に』©こうの史代/コアミックス 上巻P110_111より
すずは、知らない土地に嫁ぎましたが、周作と彼の両親は優しい人柄で彼女を安心させます。しかし周作の姉・徑子(けいこ)が、娘の晴美を連れて嫁ぎ先から戻ってきました。
徑子は気が強く、口やかましい女性。すずは、慣れぬ新婚生活にとまどいますが、仕事から帰宅した周作が、呉の軍港を一望できる高台に彼女を連れ出します。そして、愛宕(あたご)・摩耶(まや)などの重巡洋艦や、駆逐艦・雪風を遠くに指さして、すずにその名を教えるのです。
さらに、呉に帰港した戦艦・大和を指さして、「『お帰り』言うたってくれ すずさん」と語りかけます。夫婦が仲睦まじく交わす会話は、現代を生きる私たちと変わりありません。そんな普通の人々の上に、爆弾が降り注ぐのが“戦争”なのです。物語の後半にかけて、次第に空襲警報のサイレンの数が増していきます――。平和な日常生活の尊さを噛みしめながら、読みたい名作です。
父親のシベリア抑留体験をマンガ化
日本とソビエト連邦が、昭和16(1941)年に締結した日ソ中立条約。日ソ両国の中立と、領土の不可侵を定めたものです。しかし昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍が国境を越えて満州(現・中国東北部)に侵攻。
その攻撃は日本の降伏後も続き、満州、樺太、千島などの地域から、約57万5千人の日本人がシベリアに強制抑留されました。
『凍(こお)りの掌(て)』は、マンガ家・おざわゆきが父親のシベリア抑留体験をベースに描いた名作です。シベリアの荒野で日本兵を待っていたのは、粗末な収容所と過酷な重労働でした――。酷寒の地で、祖国の土を踏む日を夢見た人々の記憶を紹介します。
昭和18(1943)年、兵力の不足から学生が学業を中断して兵役に就くことになりました。これを、学徒動員といいます。小澤昌一(まさかず)は東洋大学予科生。読書が好きな青年でしたが、終戦間近の昭和20(1945)年1月に臨時召集令状(赤紙)を受け取っています。
派遣先は、北満州の遜呉(そんご)。小澤昌一は、そこで精鋭とうたわれていた関東軍の補充兵として配属されたのです。しかし、敗戦の色濃い大戦末期のこと。兵舎には経験の浅い初年兵しかおらず、守るべき飛行機一機さえ残っていませんでした。
昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を無視しソ連軍が突如侵攻を開始しました。小澤昌一の部隊は抗戦を試みますが、8月16日に日本の敗戦が告げられます。戦争は終わりましたが、満州の日本兵を待ち構えていたのは、さらなる地獄だったのです。
『凍りの掌』©おざわゆき/講談社 P119より
ソ連兵に集められ、大型艦船に乗せられた日本兵たち。ソ連兵による「ダモイ(帰国)」の掛け声に、日本への帰国を期待しますが、辿り着いたのは異郷の地。極寒のシベリアでした。
小澤昌一がはじめに収容されたキヴダ収容所は劣悪な環境。食事といえば、雑穀が混じった黒パン1切れと、高粱(コーリャン)のスープが1日2回だけ。夜間は、支給された2枚の毛布にくるまりますが、眠ることがままならぬほどの寒さに襲われます。
昼間は、石炭掘りに駆り出されます。屋外の気温は、マイナス20度なら暖かく感じるほど。マイナス30度の日でも外に出されるほど、その労働は壮絶を極めました。こうして多くの日本人たちが、極寒の地でバタバタと倒れていったのです。帰国への希望に胸を焦がしながら、果たすことができなかった人々――。おざわゆきは、彼らの無念をマンガに描き留めています。
水木しげるが実体験を元に描いた戦記マンガ
『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを手掛け、妖怪マンガの第一人者として知られる水木しげる。
妖怪マンガとともに、もう一つの代表作『総員玉砕せよ!!』は、太平洋戦争に従軍した水木しげるが、実体験を元に描いた戦記マンガの名作です。舞台は、太平洋戦争末期の南方戦線ニューブリテン島バイエン。アメリカ軍の猛攻で劣勢を極める中、日本軍将校が玉砕を決断します。
「この『総員玉砕せよ!!』という物語は、九十パーセントは事実です」と、「あとがき」に著している水木しげる。「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない」という言葉も残しています。最前線で起きた玉砕の物語は、戦争の無意味さを読者に突きつけています。
昭和18(1943)年、水木しげるは21歳で召集され、日本陸軍の軍人としてニューギニア戦線・ラバウルでの激戦を体験しました。爆撃により、左腕を失った水木しげる。終戦後に復員すると、紙芝居作家を経て貸本マンガ家となっています。
貸本マンガ家時代は、「少年戦記」(兎月書房)などの貸本マンガ誌で、編集作業とともに多くの戦記マンガを手掛けた水木しげる。その筆致は荒々しく、戦争で体験した思いが滲むものでした。
昭和40(1965)年、『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞した水木しげるは、貸本時代に描いていた作品をもとに『ゲゲゲの鬼太郎』などの作品を少年週刊誌に連載して人気作家となっています。『総員玉砕せよ!!』は、著者の戦争体験と実話を元に、講談社より描き下ろしされました。
『総員玉砕せよ!!』©水木しげる/講談社 P272より
太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、ニューブリテン島のココボで、丸山二等兵は今度行くところは「天国みたいなところ」だと耳にします。若き士官・田所少佐に率いられて、500名の兵士がバイエンに上陸します。
しかし、そこは「天国みたいなところ」ではなく「天国にゆく場所」でした。敵弾にあたって戦死する者のほかに、伝染病で命を落とす者、ワニに食われて死ぬ者、空腹のあまり獲った魚を丸飲みして窒息死する者もいたのです。やがて連合軍が上陸し、攻撃を開始します。中隊長は持久戦に持ち込むべきと意見しますが、田所少佐はそれを退けて、潔く玉砕するよう命じます。
玉砕とは、玉のように美しく砕け散ることで、戦争の大義に殉じることをいいます。切り込み作戦で生き残った者たちは聖ジョージ岬に撤退しますが、司令部では玉砕の電信を受けて全員死んだものとされていました。居場所がなくなった生存者たちは、敵前逃亡をしたと責められて、決死の再突入を行うこととなります――。水木しげるが戦争の真実を描いた代表作をぜひご覧ください。
ライフワークとなった「戦場まんがシリーズ」
多くの人気SF作品を手掛けたマンガ界の巨匠・松本零士。様々なジャンルのマンガを描いた一方で、戦争を題材にしたシリーズを半世紀にわたって描き続けています。
「戦場まんがシリーズ」は、異国の星の下に消えていった名もなき若者たちの青春を描いたシリーズ。『銀河鉄道999』とともに、第23回小学館漫画賞に輝いた名作中の名作です。
第二次世界大戦をテーマにした作品群のなかから、特攻の悲劇を描いた一編『音速雷撃隊』をご紹介します。
「戦場まんがシリーズ」は、「週刊少年サンデー」(小学館)に不定期連載された作品を中心に構成されています。
第二次世界大戦を舞台にした短編マンガの連作集ですが、これに続いて「ザ・コクピット」「ハードメタル」「ブルーメタル」「ケースハード」「コクピットレジェンド」と、シリーズ名と掲載誌を変えつつ、30年以上にわたって発表されました。
「戦場まんがシリーズ」は、全9巻の新書判コミックスにまとめられていますが、その中から『オーロラの牙』に収録された一編『音速雷撃隊』をご紹介します。日本海軍が太平洋戦争末期に開発した特攻兵器・桜花(おうか)と、その搭乗員。さらに、その機体を目標となる敵艦位置まで運ぶ一式陸攻(一式陸上攻撃機)の搭乗員たちの想いが錯綜します。
『戦場まんがシリーズ オーロラの牙』©松本零士/小学館 『音速雷撃隊』P150より
太平洋戦争末期、沖縄にせまるアメリカ軍機動部隊に抗するため、桜花特別攻撃隊が編成されました。大型爆弾の威力をもって戦艦や空母を撃沈し、戦局の転換を図るという切り札だったのです。
桜花の搭乗員は一人。攻撃目標近くで母機から放たれると、ロケットを噴射して操縦する人間もろとも目標に突入します。しかし、1.2トン爆弾を内蔵した桜花を積んだ一式陸攻は、速度が落ちてしまいます。さらに、護衛の戦闘機も十分でなかったことから、攻撃隊の多くが目標地点にたどり着く前に撃墜されてしまったのです。これを理由に、アメリカ軍から「人間爆弾」「BAKA BOMB」と揶揄(やゆ)されたといわれています。
本作の主人公は、図らずも桜花による特攻に失敗し、基地に生還した野中少尉。再出撃の時が迫る中、自らを運んでくれる一式陸攻の搭乗員たちと酒を酌み交わします。野中少尉は、あと30年、せめて20年生かしてくれたら……と、自らの人生に思いを馳せます。同じ頃アメリカ兵たちも、戦死した仲間がもし30年生きていたら……と戦友を偲ぶのです。尊い若者の命を奪う戦争――その悲しさは、敵も味方も変わりありません。
忘れてはならない戦争の記憶をマンガに紡ぐ
日中戦争を通じて、アメリカなど連合国との関係を悪化させた日本は、太平洋戦争への道を突き進みました。
日本軍の戦線は、東南アジアに留まらず南太平洋まで拡大。兵站(食糧補給)を無視した作戦で、戦死者のほか多くの餓死者・病死者を出しました。また日本国内でも、連合軍の空爆により多くの民間人が犠牲となりました。
戦後80年を前に、忘れてはならない戦争の悲劇――。マンガ家たちは、年月の経過ととともに失われていく記憶の断片を集め、物語として紡ぎ出しています。激動の時代に翻弄された人々の心の叫びを感じ取りながら読んでみてください。
執筆:メモリーバンク / 柿原麻美 文中一部敬称略