【漫画家のまんなか。vol.26 秋本治】「名車、航空機、鉄道――好きなものからアイディアが生まれる」 『こち亀』の秋本治が創作への想いを語る

トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。今回は、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』などの作品で人気の秋本治先生にお話を伺います。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』は「週刊少年ジャンプ」(集英社)で40年にわたり連載された長寿漫画。主人公の両さんこと両津勘吉は、日本の漫画史上最も愛されている警察官と言っても過言ではありません。
国民的人気作品が生まれた創作の原点には、漫画好きだった秋本先生の少年時代がありました。漫画との出会いからプロ漫画家としてのデビューまで、さらに2025(令和7)年3月22日にオープンする「こち亀記念館」への想いをお聞きしました。
▼秋本治
1952年、東京都生まれ。本郷学園高校デザイン科在学中にマンガ劇画同好会を立ち上げて同人活動を始める。同校卒業後、竜の子プロでアニメーターとして勤務。1976年、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が「週刊少年ジャンプ」に掲載されデビュー。この作品は同誌で2016年まで連載され、国民的人気作品となった。40年にわたる連載で刊行された単行本は201巻を数える。2001年に第30回日本漫画家協会賞大賞を、2005年に第50回小学館漫画賞審査委員特別賞を、2017年に第21回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。そのほか『Mr.Clice』『BLACK TIGER ブラックティガー』など代表作多数。最新作『TimeTuberゆかり』は3月5日(水)発売の「グランドジャンプ」7号より連載をスタートしている。また、3月21日(金)には、集英社ジャンプリミックス『秋本治のナイス!なチョイス こち亀 LIVE!!10 ‘25年3月』が発売に(※リミックス:コンビニエンスストア他で発売する再編集版コミックス)。

3冊10円の漫画の付録を、むさぼり読んだ少年時代
僕たちが子どもの頃の楽しみといえば漫画でした。下町育ちなので紙芝居屋さんも回ってきましたが、なぜか馴染めずに家で漫画本を読んでいました。僕の漫画好きは小学生になるかならないか、それこそ物心がつき始めた頃からのことです。それを後押ししてくれたのが、僕の家のそばにあった貸本屋さんでした。
もっとも貸本屋さんで本を借りるには、住所や名前が分かるものを提示して登録しなければなりません。まだ幼かった僕には無理でした。そこで僕が目をつけたのが、3冊10円ほどで売っていた漫画の別冊付録です。本誌の半分の大きさでしたが、今日の単行本のようなものと言えばよいでしょうか。幼い僕には読みやすいものでした。
当時の子ども向け月刊誌は“付録合戦”の時代で、漫画の別冊付録がたくさんついていました。手塚治虫先生の『魔神ガロン』を読んで怖かったのを覚えています。前谷惟光(これみつ)先生の『ロボット三等兵』が好きになり、僕は後に『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以降、『こち亀』)にロボットの警官を登場させたりしました。
隠れて読んだ少年向けの漫画誌
僕が初めて「少年」(光文社)を買ってもらったのは、小学2年生が終わって3年生になった頃でしょうか。その頃、テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963〈昭和38〉年)の放映が始まりました。国産初の30分テレビアニメシリーズという実験的な作品でしたが、当時の子どもたちに大きな衝撃を与えました。「少年」という雑誌は『鉄腕アトム』が掲載されていたこともあって、凄い人気となりました。僕は横山光輝先生の『鉄人28号』や、関谷ひさし先生の『ストップ! にいちゃん』なんかも好きで、夢中になって読んでいました。
それまで親が定期購読していてくれたのが「幼稚園」「小学一年生」(以上、小学館)などでした。漫画が多い子ども向けの漫画誌はダメ。当時の親の感覚から言えば、学年誌――いわゆる学習誌が一番というのが常識でした。それでも僕は「少年」をはじめ「少年画報」(少年画報社)、「日の丸」(集英社)などを隠れて見ていました。
少年漫画は全部と言っていいほど見ていましたが、少女漫画では水野英子先生の『こんにちは(ハロー)先生(ドク)』や『白いトロイカ』などは、リアルタイムで読んでいました。親戚に女の子が多かったので、その家に行けば「週刊マーガレット」(集英社)や「週刊少女フレンド」(講談社)が読めたのです。水野英子先生の全盛期の頃です。作品に描かれる可愛い女の子や、外国の風景に心惹かれました。
当時は男の子が少女漫画を読んでいると分かると、仲間たちからはやされたりしましたが、僕にとっては面白いものなら少年向けも少女向けもなかったのです。少年向け漫画にはない綺麗な絵柄に衝撃を受け、むさぼるように読みました。
小学3年生ぐらいから描き始めた漫画
僕が漫画を描き始めたのは小学生の頃です。小学3年生ぐらいには、ペンを握って描き始めていました。小学6年生になると、手塚治虫先生の『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』(秋田書店)を読んで、漫画の描き方やストーリーの立て方を学びました。
本格的にプロの漫画家を目指そうと思ったのは、中学生になってから。石森(現・石ノ森)章太郎先生の『マンガ家入門』(秋田書店)の影響が大きかったと思います。この本では、石森先生ご自身が自らの作品を分析されていました。背景の描写だけで舞台の移動と時間経過を表現するテクニック、サスペンスの盛り上げ方など、漫画のテクニックが具体的にこと細かく書いてありました。僕らの世代の漫画家志望者は、これを読んで「プロを目指すというのはこういうことだ」と、覚悟を突きつけられています。
この頃、手塚治虫先生主宰の漫画誌「COM」(虫プロ商事)が創刊されました。この雑誌には「ぐら・こん」というコーナーがあって、全国の漫画を描く人たちが投稿していました。漫画仲間が集まって作る同人誌を募集していたのです。しかし、中学生だった僕の周りには漫画を描く人が少なかったため、同人誌を作ることができませんでした。僕はこの時代に描いた作品を綴じて、同人誌ならぬ個人誌を作っています。
メジャー誌に登場した劇画に傾倒する
僕が中学生の頃というと、劇画が中央の漫画誌に入ってきた時期でした。初期は、貸本専門の漫画誌を中心に発表されていた劇画。暴力的で反社会的と見られていた作品がメジャー進出したのです。「週刊少年マガジン」(講談社)が、読者の年齢層引き上げのために劇画を導入し、部数を伸ばし始めていました。
ちょうど大阪で活動していた「劇画集団」の方たちが東京にどっと入ってきて、今まで見たことのないガン・アクションや、男らしい主人公が読者を魅了しました。絵柄がリアルなだけではありません。映画的な要素を取り入れたドラマ作りは、それまでの子ども向け漫画では表現できない世界を描いていました。漫画が大好きな僕にとって、その印象は強烈でした。ことに、さいとう・たかを先生の『無用ノ介』は最高で、いまだに読み返しているほどです。「週刊少年マガジン」では、ちばてつや先生の『あしたのジョー』(原作:高森朝雄)も好きでしたし、影丸譲也先生の『ワル』(原作:真樹日佐夫)のような挑戦的な作品も心に残っています。
時代は、それまでの価値観とは全く違う視点を求めていました。アメリカン・ニューシネマの『俺たちに明日はない』(1967年)では、銀行強盗がヒーロー的存在として登場しますが、この作品に象徴されるように“既存の正義への挑戦”がテーマとなってきていたのです。1969(昭和44)年には、僕の大好きな望月三起也先生が「週刊少年キング」(少年画報社)で『ワイルド7』の連載を始めています。僕は劇画に傾倒し、真似をするようになっていました。ありかわ栄一(現・園田光慶)先生の『アイアン・マッスル』に影響されたのもこの頃のことです。
デザイン科の仲間と同人を結成。「COM」編集部に出入りする
中学校を卒業すると、当時は就職して働くという選択肢もありました。ところが僕が進学先に選んだ本郷学園にはデザイン科があり、そこなら絵の勉強もできます。入学して、さすがにデザイン科だと思いました。「絵が好き」というだけでなく、絵が描ける人が集まっていたのです。漫画を描いている人もいたので、みんなでマンガ劇画同好会を結成。また、ほかの学校の漫画クラブの上手な人にも声を掛けてチームを作ったりしています。こうして本格的な同人活動が始まりました。
本郷学園は巣鴨にありました。「COM」の出版元・虫プロ商事が池袋と近かったこともあって、よく編集部に遊びにいかせてもらいました。「ぐら・こん」に寄せられた全国の漫画クラブの同人誌。それを誌上に載る前に見せてもらい、中でも上手な人に手紙を送って交流したのも、今では楽しい思い出です。編集部はとてもオープンな雰囲気で、すごく優しい編集者の方もいらして、多くの新人漫画家が集まってくる場でした。
「せっかく来たのだから」と編集部の人に言われて、お仕事を手伝ったこともありました。当時の漫画は、読みやすいように1コマ1コマに*コマノンブルの写植が貼ってあり、これがコミックスになる時に邪魔になるのです。そこでコマノンブルを取るのですが、時には絵柄が欠けてしまうこともあります。そこにベタを塗ったり、ホワイトを掛けたりするのですが、その謝礼は虫プロのコミックスなど――これはこれで、僕たちにとっては嬉しいものでした。
(*コマノンブル=漫画のコマの読み順を示す番号)
アニメ制作が広げた僕の世界
高校1年の時でした。東映長編まんが映画シリーズの『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968〈昭和43〉年)を見て、凄く感動しました。その影響もあって、高校ではアニメの制作もしています。
高校生活は3年間です。後輩ができると、彼らのために「何か残しておきたい」と考えるようになって、1年に1本アニメを撮り始めました。アニメ制作会社の虫プロダクションは西武池袋線の富士見台駅近くにあったので、そんなに遠くでもありません。虫プロのスタジオにうかがってお話を聞いたり、動画用紙、セルを買ったりしています。
当時の8mm撮影機にはストップモーションがないものが多かったのです。そこで1コマ撮りができる8mm撮影機を先生に借りて撮影しました。僕が描いた絵を撮影してくれたのは同級生です。本郷学園にはいろいろな才能を持った人がいました。漫画を描くのは基本的に個人作業ですが、アニメは友人たちと出会えたから制作することができたわけです。アニメの制作で世界が広がったような気がします。
竜の子プロで描いた“ガッチャマン”と“デメタン”
僕は高校3年生になって、将来どうするかの岐路に立たされました。「漫画家になりたい」と思っても、これはなかなか難しい。それならアニメーターになれば、好きな絵を描いていられると考えたのです。漫画家になることを諦めたということではありません。アニメの世界も、漫画の世界も面白いと思っていました。
僕は通い慣れた虫プロダクションに入りたかったのですが、残念ながら採用されませんでした。しかし知り合いの虫プロの人が、竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)を紹介してくれたのです。そこで葛飾区の自宅から、竜の子プロがある国分寺まで2時間半をかけて通いました。
僕にとって、竜の子プロの設立メンバーである吉田竜夫さん、九里一平さんは、どちらかというと漫画家のイメージが強くあります。スタジオの廊下に無造作に積まれている漫画の原稿の山。「見ていいですか」とお断りして見ると、これが実に上手い。吉田さんの絵も凄かったですが、九里さんが描いた科学忍者隊の紅一点・白鳥のジュンの美しさに魅了されました。アメリカン・コミックスのテイストに、僕は震えたのを覚えています。
国分寺は、劇画家が集まる街でもありました。中でも竜の子プロは吉田さん、九里さんの会社ということもあって、劇画家が多く働いていたのです。『科学忍者隊ガッチャマン』(1972〈昭和47〉年)はリアルな絵柄ですが、この作品がスタートする時に入社できたのは、劇画家志望の僕にとって嬉しい限りでした。
竜の子プロで作画グループに配属された僕は、『科学忍者隊ガッチャマン』や『けろっこデメタン』(1973〈昭和48〉年)の動画を描きました。二作は全く異なるタイプのテレビアニメですが、そのキャラクターを作画監督が同時に描いていたのには驚かされました。僕は後に『こち亀』を描いて、さまざまなキャラクターを登場させていますが、この時の経験が役立ったのかもしれません。
竜の子プロを退社。漫画の執筆に没頭した1年半
アニメーターとして働いている間も、漫画への想いは変わりませんでした。竜の子プロには、絵が好きな人たちが集まっていました。そこで漫画を描いている人に声をかけて、同人誌を作りました。僕は、望月三起也先生ばりの派手なアクション漫画を描きたいと考えて、ベトナム戦争をテーマにしたものを描き始めたのです。
ところが働きながらでは、漫画を描く時間がなかなか作れません。さらに葛飾区から国分寺はいかにも遠い。定期代で給料の半分はなくなってしまいます。竜の子プロには2年ほどお世話になりましたが、退社して自分で漫画を描き始めました。1年半ほどかけて完成したのが長編の『平和への弾痕』です。
重いテーマと格闘した1年半。次に軽い作品を描きたくなって描いたのが『こち亀』です。ちばてつや先生や望月三起也先生の作品のように、コミカルなアクションものにしたいと考えていました。最初はアメリカのポリス・アクションを描こうとしたのですが、映画などでポリスの格好だけは分かるものの、実際にどんな活動をしているのかは分かりません。当時はアメリカン・ポリスの資料が少なかったのです。
ほとほと頭を悩ませている時に目に入ったのが、日本の派出所勤務の警察官。これなら、活動内容を調べやすいと思いました。派出所に取材に行ったこともあります。しかしその時の僕は、まだ漫画家ではありませんでした。年配の警察官に、僕が漫画家途上人であることを話すとともに、描いている作品をお見せしました。すると、この方は「漫画家は、白土三平先生しか知らない」と言いながら、僕の相談に耳を傾けてくれて、「スケッチをするぐらいなら良いよ」とOKをくださり、派出所の様子をスケッチすることができました。
初めて投稿した『こち亀』が「ヤングジャンプ賞」に入選
日本で銃を所持できる人と言えば、警察官がその代表です。しかし警察官であっても、変わった人が拳銃を持っていたとしたら近寄りがたい。でも、その裏を返せば“面白い”という発想でした。下町の怖い人が銃を持ち、ギャンブルをするは、酒を飲むは――というおよそ警察官らしくない男を描いてみようと思ったんです。八方破れなキャラクターが活躍する作品を描き上げて、集英社の「ヤングジャンプ賞」に応募しました。「ぐら・こん」で有名な「COM」の編集部に出入りしていた僕ですが、実はこの『こち亀』が初めての投稿でした。
この投稿作品が「月例ヤングジャンプ賞」に入選して「週刊少年ジャンプ」(集英社)に掲載されましたが、“ギャグ作家出現”と宣伝されたのにはとまどいました。本人は“ストーリーもの”を狙って描いていたからです。劇画スタイルで笑いを誘うという点が評価されたのでしょう。しかし、当時のギャグ漫画だと与えられるページは13ページほど。僕が描きたい漫画は、あくまでストーリー漫画なので19ページは必要です。後に本作品が連載化される時は、「ギャグじゃなくストーリー漫画を目指しているんです!」と編集部にこの点を強調してお願いしました。
念願の入選ですが、新人漫画家には喜びに浸っている暇などありません。タクシー運転手が巻き起こす大騒動を描いた読み切り作品『交通安全’76』を描き、次の作品にするべく刑事もののネームを取っていました。すると、「連載の候補にするから」と編集部から連絡があったのです。「ネームが10本溜まったら連載する」と言われて、『こち亀』のネームに急遽切り替えました。
「10本も描けば、コミックスにまとまるだろう」と考えていましたが、当時はこの作品が連載に発展すると思ってもいませんでした。まずは1年経たないとコミックスにならない時代だったので、「1年経ったらコミックス……」と念じながら描いていました。そして、想像以上の反響をいただき連載が決まってからは、「マラソンみたいに、少しずつ続けられたら」と考えていましたが、それが40年も続いたから驚きです。

『こちら葛飾区亀有公園前派出所』©秋本治・アトリエびーだま/集英社
読み切り作品で、次々に生まれるアイディア
描き始めてから2年目、連載100回目の時。この時、男ばかりのキャラクターの中に、秋本麗子が登場しました。
当初は麗子をこれほど長く登場させるつもりはなかったのですが、人気が出たためレギュラーのキャラクターになりました。イケメン警察官の中川圭一は、初期から登場するメンバーです。やはり格好良いキャラを描きたかったですし、僕が銃などのマニアックな話を描きたい時に活躍してくれます。主人公の両津勘吉(以降、両さん)をはじめとする破天荒な警察官たちを、父親のように見守り、まとめるのが大原部長です。ストーリーがキャラクターを育ててくれると言えばいいのでしょうか。長い間連載していると、次第に各キャラクターの役割ができてきました。
40年間の連載の中で、僕が意図的に登場させたキャラクターがいます。擬宝珠纏(ぎぼしまとい)という女性警察官です。大原部長のほかに、両さんの暴走を止める人がいなくなっていたこともあります(笑)。纏はチャキチャキの江戸っ子で、両さんをセーブする良き女房役となってくれました。纏の実家は神田の老舗寿司屋・超神田寿司という設定ですが、そこで両さんを板前として働かせることにしました。
かねてより、両さんの生活面を描いてみたいという思いがありましたが、彼を結婚させるとキャラクターのイメージが変わってしまいます。擬宝珠家には、夏春都(げぱると)というお祖母ちゃんや、檸檬(れもん)という小さな女の子がいます。彼らとの交流を通して、両さんの家庭的な一面を描くことができました。僕自身も寿司が好きで、寿司の話を描いてみたいと思っていたこともありました。寿司屋や築地市場も取材していたので、作品に織り込ませています。描いていて楽しかったエピソードの一つです。
『こち亀』を40年間描き続けられたのは、好きな題材がたくさんあったからです。自分が好きなジャンルであれば、どんどんアイディアが生まれます。バイクにしてもマニアックなスポーツ・カーにしても、航空機、鉄道、銃、プラモデルなどなど――。いずれも僕が好きになったものでした。例えば銃なんかは、僕は銀玉鉄砲で遊んだ頃からモデルガンまで、蘊蓄(うんちく)を語ることができます。いろいろな題材を描けるのも、読み切り作品ならではの魅力です。 1話ごとの読み切りなので、気分転換をしながら描くことができたと思います。

『こちら葛飾区亀有公園前派出所』©秋本治・アトリエびーだま/集英社
『こち亀』の連載終了後に、新シリーズに取り組む
2016(平成28)年に、40年間続いた『こち亀』の連載に幕を下ろしました。連載終了後に新しく描いた漫画の第1作が『BLACK TIGER ブラックティガー』、第2作が『ファインダー―京都女学院物語―』で、両作品とも女性が主人公です。
大好きな西部劇を描いた『BLACK TIGER ブラックティガー』。南北戦争後のアメリカを舞台に、北部政府から南部の残党を駆逐するため「殺しの許可証(ライセンス)」を与えられた女性ガンマンのブラック・ティガーが活躍するお話です。絵柄もリアルに、自分が好きだった劇画調を追求しています。「悪をもって悪を制す」――望月三起也先生が描いていた『ワイルド7』の世界へのチャレンジでもありましたが、描いていてとても楽しい作品でした。
西部劇と言えば、僕は以前に『アリィよ銃を撃て!』という読み切り作品を描いています。ガンスミス(銃職人)である祖父を殺された若い女性・アリィが、銃を取って無法者に立ち向かうという物語でした。実はこの時、アリィに銃を持たせて“仇討ち”をさせたかったのです。ただ可愛い女の子に銃を持たせて仇討ちをさせるということに、少なからぬ違和感を持ってしまいました。それもあって、ブラック・ティガーを賞金稼ぎ、バウンティー・キラーにしました。これなら女性ガンマンというキャラクターが成立すると考えたのです。

『BLACK TIGER ブラックティガー』©秋本治・アトリエびーだま/集英社

2025(令和7)年春「グランドジャンプ」(集英社)で連載がスタートした『Time Tuberゆかり』も、もとは読み切り作品として描いたものです。現代の女子高生・ゆかりが、不思議な時計“デウス・エクス・マキナ”の力で昭和時代に迷い込んでしまいます。H・G・ウェルズが『タイム・マシン』を書いて以来、時間旅行をテーマにした物語がたくさん生まれていますが、僕もこのお話で懐かしい昭和時代への旅を楽しんでいるのです。「古きを温(たず)ねて新しきを知る」と言いますが、読者のみなさんには新しい発見があるかもしれません。楽しんで欲しいと思いながら描いています。

「こち亀記念館」のオープン
2025(令和7)年3月22日、東京の葛飾区亀有に「こち亀記念館」がオープンします。こちらの方も、僕の漫画同様楽しんでもらえれば嬉しいです。JR亀有駅から徒歩3分の場所にある5階建てのビルで、建物から展示物まですべて両さんがプロデュースしているという設定です。『こち亀』の複製原画や映像、舞台となった亀有の歴史や風景まで盛りだくさんの展示内容は、多くの人に楽しんでいただけると思います。
これまでにも亀有には、両さんや中川、麗子の銅像や、キャラクターが描かれたマンホールが設置されていました。今回の記念館も、葛飾区の方々が企画してくださったもので、皆さん小さい頃から『こち亀』を読んでくださっているそうなのです。「ここが見たい」という読者の目線で作ってくださっていることが、作者としてとても嬉しく思います。『こち亀』の魅力が詰まった“秘密基地”のような空間になっていますので、ぜひ足を運んでみてください。
取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略
インフォメーション
こち亀記念館

©秋本治・アトリエびーだま/集英社
公式サイト:https://kochikame-kinenkan-official.jp/
開業日:2025年3月22日(土)
場所:東京都葛飾区亀有3-32-17
開館時間:10時~18時
休館日:毎月第3火曜日(祝日・休日の場合は直後の平日)
入館料:高校生以上は700円(葛飾区民は500円*)、中学生以下は300円(葛飾区民は100円*)、未就学児は無料
事前に公式オンラインサイトで来訪時間を選んで購入するシステム。
*区内在住、在学、在勤