【漫画家のまんなか。vol.22 室山まゆみ】「描いている自分が一番楽しむ!」 室山まゆみが語る創作のポリシー!!
トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。今回は、ギャグ漫画の人気作『あさりちゃん』の作者、室山まゆみ先生にお話を伺います。
室山まゆみ先生は、眞弓先生と眞里子先生の姉妹による漫画家コンビ。その始まりは1969(昭和44)年、まだ二人が中学生だった頃のこと。10ページの投稿作品『吸血鬼』を描き上げて以来、55年の長きにわたって合作してきました。
2024年の年末には、人気シリーズの最新刊『あさりちゃん in パリ』(小学館)が刊行されます。「楽しんで描くことが一番」と語る室山まゆみ先生に、漫画家としての半生と、これからの展望をお聞きしました。
▼室山まゆみ
1955年生まれの姉・室山眞弓と、1957年生まれの妹・眞里子による漫画家コンビ。熊本県玉名郡出身で、中学生の頃から姉妹で漫画を描き始める。眞弓の就職・転勤に伴い、姉妹で上京。
1976年、姉妹共同名義の「室山まゆみ」で「別冊少女コミック」に『がんばれ姉子』を発表してデビュー。『ハッピー・タンポポ』の連載以降、小学館の学年誌や「ぴょんぴょん」「ちゃお」などの少女漫画誌にギャグ漫画を発表している。代表作の『あさりちゃん』は、
1978年から足掛け36年にわたって連載。小学4年生の主人公・浜野あさりの姿をユーモラスに描いて読者の共感を呼んでいる。1985年、『あさりちゃん』で第31回小学館漫画賞児童部門受賞。そのほか『どろろんぱっ!』『すうぱあかぐや姫』など代表作多数。
姉妹コンビ・室山まゆみの誕生秘話
妹・眞里子:私たちの漫画家としての“半生”は“反省”することだらけでした。反省してます(笑)!
姉・眞弓:冗談はさておき、確かに私たちの半生は反省する点も多かったですね。私たちが漫画を描き始めたのは、中学生時代のことでした。最初は姉妹のそれぞれが、一人ずつ描いていたんです。でも一人ずつ描いていたら、いつまで経っても終わらなかった。お話は作るんです。さらに下絵までは描くけど、ペンを入れる頃には飽きてしまう。鉛筆描きの下絵を前にして、何もできないまま終わった作品が山のようにありました。
妹・眞里子:当時から「雑誌に投稿したい」という思いがありました。投稿するためには、作品を完成させなければいけませんが、それがどうしてもできなかったんです。「どうしようか」って、二人で頭を抱えました。私は割とマメに描く方なんですが――。
姉・眞弓:ウソ、この人は描かない(笑)。雑なんです。
妹・眞里子:そう、雑なんです。それで、姉妹で合作するようになりました。そうは言っても合作の初期は、下絵を入れるのもバラバラにやっていました。そこで、キャラクターごとに分業するルールを作ってみたんです。「このキャラクターはあなたが、モブ(群衆)は私が描く」というように役割分担するようになりました。この分業制は、カタチを変えて今も続いています。まず私が最初に下絵を描いて、それを姉に渡します。
姉・眞弓:その後、私が人物の主線(おもせん)にペン入れします。
妹・眞里子:人物の線が入ったら、私が背景を描きます。そしてまた姉に戻すんですね。
姉・眞弓:最後に消しゴムをかけてから、墨ベタを入れます。さらにホワイトを入れて完成です。
妹・眞里子:そうやって二人で描いていけば、自然と作品を完成させられるというワケです。中学生の頃に、「こうすれば投稿できる!」と気づいたんですね。
初めての合作『吸血鬼』
姉・眞弓:合作スタイルの原点となったのが『吸血鬼』という作品です。私が中学3年生、妹が中学1年生の時に描いたもので、小学館のホームページ「小学館キッズ」で公開しています。これより前にチャレンジ的な作品はいくつか描いていますが、二人で最後まで描いたのは本作が初めてでした。
妹・眞里子:初めての投稿作品はギャグ漫画でした。でも本来描きたかったのは、ストーリー漫画、少女漫画だったんです。「別マ」こと「別冊マーガレット」(集英社)に投稿するには、ストーリー漫画の場合 16ページが必要でした。だけどギャグ漫画の規定は4~10ページ程度と短いもの。これでお察しいただけますよね、私たちがギャグ漫画を投稿した理由が(笑)。
姉・眞弓:意外かもしれませんが、当時の私たちは『吸血鬼』以外のギャグ漫画はそれほど描いていないんです。とにかく「少女漫画を描きたい」という思いがあったので、「別マ」に『吸血鬼』を送った一方で、「少女フレンド」(講談社)にも少女漫画を投稿しています。だけどこの雑誌でも、入賞したのは完全なギャグ漫画でした。
妹・眞里子:吸血鬼から一年後、『決死の対決』という作品が「少女フレンド」の努力賞に入選しました。“ストーリー漫画”と“ギャグ漫画”をキャラクターにして、バレーボールで戦わせたんです。 8等身のストーリー漫画と、3等身のギャグ漫画による対決。ストーリー漫画の真面目ぶりに対し、ギャグ漫画は「何をやっても、勝てればいい」というスタンスでした。ラストには、ギャグ漫画がボールを切り裂いてしまうという破天荒ぶりでした。
ストーリー漫画とギャグ漫画、運命の分かれ道
姉・眞弓:『決死の対決』の入選で3千円の賞金をいただきました。だけど喜んだのも束の間で、編集者から「どちらかにしなさい」と言われてしまった。ストーリー漫画とギャグ漫画、描くテーマをどちらか一つに決めろと言うんです。かなり迷いましたね。
妹・眞里子:その頃、「少女フレンド」の採点方法が変わったんです。ストーリーが50点、絵が50点の内訳で、合計60点取れたら入賞できるシステムだったと思います。 その合格ラインが70点に上がったんです。「もう駄目だ」と思いましたが、ギリギリ70点で通過。『決死の対決』に続いてコメディ作品が入賞し、5千円ほど賞金をいただいたと思います。
姉・眞弓:女の子の初任給が3万円という時代です。 5千円の賞金は大きな自信となりました。さらに編集者の方が、遠路はるばる熊本まで私たちに会いにきてくれました。九州出張のついでに寄ってくださったんです。当時の私たちは、大和和紀先生の少女漫画が好きでした。編集者さんにお伝えしたところ、大和先生と杉本啓子先生の原稿を持ってきて、見せてくださいました。初めてプロが描く原稿を前にして、感動したのを覚えています。
1970年代の少女漫画事情
妹・眞里子:私たちが高校生だった1970年頃、熊本には漫画研究会がある学校はほとんどありませんでした。今は同人誌即売会がたくさんありますが、当時は同人誌と言ってもわら半紙にコピーしたようなものでした。私たちが同人誌の作り方を知らないのはもちろん、それ以前の問題として、漫画の描き方をよく知らないという状況です。先述の『吸血鬼』は、画用紙を折って本状に仕立てたものに描いています。
姉・眞弓:漫画は一般的にB4判のケント紙などの原稿用紙に描きます。それを知らない私たちは、ずいぶん小さいサイズで描いていたわけです。漫画の枠外のスペースも、わずか 1cm程度しか取っていませんでした。漫画の商業誌のほとんどが、ピンクや薄緑の色の仙花紙(再生紙)に印刷されていますが、漫画家が色付きの紙に描いているのだと思っていました。それくらい何も知らなかったんです。
妹・眞里子:当時「別冊マーガレット」には、「別マまんがスクール」という投稿コーナーがありました。賞の選者であったのが、漫画家の鈴木光明先生。同誌の編集長だった小長井信昌さんとともに、後進の少女漫画家の育成に尽力された方です。「別マまんがスクール」は、私たちの世代の少女漫画家志望者にとって登竜門的存在でした。その鈴木先生の著作である『少女まんが入門』(白泉社)が、入門書として一番参考になりました。
姉・眞弓:「別マまんがスクール」に投稿すると“講評”の紙が届きました。漫画のテクニックの項目ごとに、「〇」や「×」の印が付けられたものです。鈴木光明先生からお手紙をいただいたこともあります。小さな文字が紙面いっぱいにビッシリと書かれていて、鈴木先生の漫画への情熱を感じるものでした。だけど達筆過ぎて、解読するのに苦労しました(笑)。
鈴木先生にお返事を差し上げたかったのですが、住所を解読できなかったため、やむを得ず断念しています。でも、とてもありがたかったですよ。いただいたお手紙には、「あなた方は必ず出てくる人ですから、漫画を描くことを絶対に止めないでください」というようなことが書いてあるのが分かりました。この言葉を支えに漫画を描き続けたんです。
少女漫画との出会い
妹・眞里子:とにかく私たちは少女漫画が大好きでした。初めて読んだのは、小学生の頃だったでしょうか。私たちが住んでいた辺りに本屋はありませんでしたが、母の実家が熊本一の温泉街・玉名にありました。そこには湯治客向けの貸本屋があって、年の近い従姉妹と女の子4人で行った覚えがあります。怪談話をよく借りましたが、怖いお話を読むと夜に眠れなくなっちゃうんです。
姉・眞弓:私は「なかよし」(講談社)との出会いが大きかったと思います。私たちの父親は自衛官でしたが、PX(駐屯地内売店)で雑誌を取り寄せてくれたんです。周りは田んぼしかないような環境でしたが、父は「子どもには本が必要だ」と言ってくれました。 「なかよし」は小学5年生頃まで、ずっと購読していました。ちょうど、手塚治虫先生の『リボンの騎士』が面白い時代でしたね。
妹・眞里子:あの頃は、男性の漫画家で少女漫画を描く方が多くいらっしゃった。でも子ども心に、「そのうち女性の作家が増えるだろう」と思っていました。女性が描く少女漫画は、華やかさであふれていたんです。夏休みには、玉名の従姉妹の家に泊まりにいきましたが、そこで「りぼん」(集英社)を読んで、わたなべまさこ先生が描く世界に夢中になりました。わたなべ作品に描かれるレース生地、刺繍などは夢のようで、二人でうっとりしていましたね。
女の子向け『あばしり一家』を目指す
姉・眞弓:少女漫画のほかに、少年漫画もたくさん読みました。手塚治虫先生のSF戦記『白いパイロット』を、貸本屋から借りて読みました。『鉄腕アトム』が読みたくて、月刊誌の「少年」(光文社)を買ってもらったこともある。その後「少年マガジン」(講談社)、「少年サンデー」(小学館)など週刊誌の存在を知って、父に頼んで買ってもらいました。
妹・眞里子:高校生の頃だったでしょうか。「少年チャンピオン」(秋田書店)を読むようになりました。永井 豪先生の『あばしり一家』が大好きだったんですね。赤塚不二夫先生の少年向けギャグ漫画も好きでしたが、「私たちが求めているものではない」と感じていました。だけど永井先生の絵は丸っこくてかわいい上に、2等身から8等身まで体型を変化させることができる。「リアルなタッチでコメディを描いていいのだ」と驚かされました。
そこで、私たちもギャグ漫画よりコメディの世界の方が向いていると思ったんです。永井 豪先生が描く線は走っていて、勢いがあるのも魅力的でした。私は勢いのある漫画が大好き。勢いのある作品を見ていると、「この人、漫画が好きなんだなあ」という気概を感じます。
上京からプロ・デビューまで
妹・眞里子:私たちの母親は、子どもが漫画を描いていても、とやかく言う人ではありませんでした。私たちはコミックスのサービスページに、「作者のぺえじ」というエッセイマンガを描いていますが、ここにもよく母の姿が登場します。子どもに関心がないわけではないのですが、とにかく自分が好きで自分の楽しみを大切にする人。女学生の頃に「宝塚歌劇の試験を受けたい」と言って、親から猛反対されたそうです。その時の苦い体験もあったのか、私たちが「東京に行く」と言っても反対しませんでした。行ってもいいけど、その代わり「お金はビタ一文出さない」と言うんですね。
姉・眞弓:投稿作品で賞金をいただいたことが、母の安心材料になっていたのかもしれません。熊本県は、漫画家を多数輩出したことから、近年は“漫画県”と呼ばれています。でもあの当時、私たちのほかに漫画の賞をもらった人はいませんでした。一度だけ、新聞の投書欄で漫画サークルの募集告知を見て、熊本市内の喫茶店で開かれた集まりに参加しました。私たちが自己紹介をすると、「賞をもらったのは、あなたたちでしたか」と驚かれました。
妹・眞里子:サークルでは、それぞれが持ち寄った原稿を披露していました。やがて参加者の一人が、「漫画は芸術だ」と持論を展開し始めたんですね。でも、それは私たちが一番聞きたくないセリフ。漫画は娯楽ですから、読者に楽しんでもらうことが一番です。それ以前に自分が楽しまなければ“楽しい作品”は描けません。漫画には文化としての側面もありますが、彼らの話は机上の空論のように思えました。
姉・眞弓:私は高校を卒業するとすぐに、地元・熊本の会社に就職しました。相変わらず漫画の投稿を続けていましたが、ある日会社から話があって、熊本支社が他支社に併合されてなくなると言うんです。そこで東京本社への異動願いを出しました。妹が高校を卒業したら、会社を辞めて一緒に上京しようと考えていたところでしたから「ツイている」と思いましたね。
会社勤めを続けながらの執筆は、大変なものでした。ところが高校生の頃に小学館に持ち込んでいたギャグ漫画が、思わぬかたちで花開くことになります。編集部から“なしのつぶて”だったので諦めていましたが、編集部のどこかに原稿が残っていたらしい。上京から1年後、熊本の実家に電話がかかって来て「ギャグ漫画の新人を育てたい」という話があったそうなんです。当時の私たちはお金がなくて、電話を引いていませんでした。会社宛てに電話をしてもらい、 1976(昭和51)年「別冊少女コミック」(小学館)発表の『がんばれ姉子』でデビューを果たしました。
妹・眞里子:小学館の学年誌編集部から、読み切りの依頼が舞い込みます。1977(昭和52)年、「小学五年生」に『キントトちゃん』を発表して再デビュー。同誌の編集部からは、付録用の作品も依頼されています。付録ではありましたが、 20ページくれることになって『ああ 花のバレー部』というギャグ漫画を描きました。当時の少女向けギャグ漫画で、これだけのページ数を使えたのは『つる姫じゃ~っ!』の土田よしこ先生くらいだったと思います。永井豪先生のようなコメディを展開したいと思っていましたから、このページ数はたいへん嬉しいものでした。この作品が人気となって、本誌での連載話に発展します。これが私たちの連載デビュー作『ハッピー・タンポポ』です。
姉・眞弓:当時のギャグ漫画は4ページが基本でしたが、それでは3誌くらい仕事を掛け持たないと食べていけないわけです。おまけにページ数が少ないと単行本も出せません。ところが学年誌の編集部は、私たちの漫画にページ数を割いてくれましたし、原稿料も安定していて助かりました。少女漫画を描きたいという思いも燻(くすぶ)っていましたが、“すぐ転ぶ”のが私たちらしいですね(笑)。
『あさりちゃん リベンジ』©室山まゆみ/小学館
『あさりちゃん』創作秘話
姉・眞弓:『ハッピー・タンポポ』は、元気いっぱいの小学生・野々タンポポと藪小路いばらが巻き起こす騒動を描くギャグ漫画です。そのヒットを受けて、「小学二年生」を皮切りに学年誌の各学年で『あさりちゃん』を描くようになります。小学生と一口に言っても、学年によって成長の度合いが異なるのはもちろんです。でも担当編集者からは、「読者の対象年齢に合わせろ」とか、そういったことは何も言われませんでした。
妹・眞里子:編集者から何か言われたことは、ほとんどありませんね。ただ『ハッピー・タンポポ』を描き始めた頃に、担当さんから「あなたたちの漫画は危ない綱渡りだ」と言われたことがあります。漫画のネームも、出来がいいものと悪いもので“差があり過ぎる”と言うんです。この編集さんの話ですが、藤本 弘(藤子・F・不二雄)先生は、打ち合わせをほとんどしないと聞きました。打ち合わせの時間を要するようでは、まだプロとは言えないのかもしれない――そう思って、なるべく打ち合わせをしないで済むようにしています。
『あさりちゃん』連載の苦労と言えば、ギリギリまでネームができなかったこと。徹夜の日々が続きましたが、人間の頭は 1日2時間しか働かないことに気づきました。 2時間考えてもネームができない日は、一旦考えるのを止めて、ほかの作業を優先するようにしています。そうやって捻り出したネームでも、姉からダメ出しをされることもあります。でも姉が“一番最初の読者”だと思っているので、「面白くない」と言われたら作り直すしかないですね。
姉・眞弓:ところで『あさりちゃん』の登場人物のほとんどが、海の生き物が由来のネーミングです。主人公・浜野あさりは二枚貝のあさり、姉のタタミはイシダタミ貝と言った具合です。そのためか、「海が好きなんですか」と聞かれることもありますが、海はあまり好きではありません。生魚も好んでは食べないんです。
妹・眞里子:『あさりちゃん』のタイトルは、“あ行”で始まる言葉を探しました。ヒットの法則ではありませんが、母音の音で始まるタイトルは語感が良く、読者に覚えてもらいやすいと言います。さらに『あさりちゃん』と“ちゃん付け”にすることで、いかにも子ども向け漫画という感じを出したいと思いました。タイトルにこだわったおかげか、足掛け 36年におよぶ長寿作品となっています。
『あさりちゃん』©室山まゆみ/小学館
「ぴょんぴょん」の創刊と『どろろんぱっ!』
姉・眞弓:1988(昭和63)年、小学館で少女漫画誌「ぴょんぴょん」がスタート。私たちは創刊時から『どろろんぱっ!』を連載しています。それまでの少女漫画誌は恋愛漫画中心でしたが、同社の少年誌「月刊コロコロコミック」のノウハウを持ち込んで、新機軸の少女漫画誌作りを目指したのです。
同じく小学館の少女漫画誌「ちゃお」よりも低年齢層の女子小学生がターゲット。私たちが学年誌に描いてきたキャリアを評価しての起用だったと思います。ただ「ぴょんぴょん」と学年誌、二足のワラジをはいての仕事はしんどかったです。それでも『どろろんぱっ!』は描いていて楽しい作品でした。私たちは常に“描いている自分が一番楽しむ”という姿勢なんです。
妹・眞里子:『どろろんぱっ!』の主人公は、平安時代の女流歌人として有名な小野小町(おののこまち)――ならぬ小野小町(おのこまち)。 100年前に死んで霊となっていますが、成仏できずに小学6年生の少女・大福寺あんこの家に転がり込みます。言わば“和物のホラー・コメディ”ですが、「和物でいいのかな」という思いもあって、御使安爺(みつかいアンジー)という下級天使と、その上司である大天使ミカエルを登場させています。
私たちは神様や悪魔が登場するお話が好きで、昔から神話や黒魔術にまつわる本を探しては読んでいました。私が中学2年、姉が高校1年の頃だったでしょうか。山田ミネコ先生が「デラックスマーガレット」(集英社)に『魔法使いの夏』という作品をお描きになったんですね。少女漫画では、初めての“悪魔もの”だったのではないかと思います。山田作品で、幽霊や悪魔、錬金術の存在を知って、私たちは幻想的な世界に魅了されました。
『どろろんぱっ!』©室山まゆみ/小学館
できなかったことにリベンジしたい
姉・眞弓:1978(昭和53)年にスタートした『あさりちゃん』。2014(平成26)年に、足掛け36年の連載を終えています。それから月日を経て、 2023(令和5)年には連載45周年を記念してシリーズ第102巻が刊行されました。『あさりちゃん リベンジ』という一冊ですが、久々のあさりちゃんの登場に、ファンの人たちが喜んでくれました。
妹・眞里子:『あさりちゃん』の連載終了後は、何もしない生活が続きました。「熊本日日新聞」に月2回漫画エッセー『室山まゆみのくまもとライフ』を連載していますが、後は“無職の楽しさ”を味わっていたんです。でも 1か月もしたら、何もしない罪悪感が生まれてきました。そんな時に『あさりちゃん リベンジ』のお誘いをいただいて、描き下ろしにチャレンジすることになりました。読者の反響が嬉しくて、今回シリーズ第103巻目となる新作の描き下ろしに挑んでいます。その名も『あさりちゃん in パリ』。どうしてパリなのかは、ページを開いてみてのお楽しみです(笑)。
姉・眞弓:今後は、ずっと描きたかった少女漫画にリベンジしてみたいです。それも漫画ではなくて、ライトノベルのようなかたちで文章を書いてみたいですね。それと、姉妹二人で遠出してみたいです。私たちは、 NHKのトーク・バラエティ『阿佐ヶ谷アパートメント』の「2024新春旅ざんまいSP」と題した特集で、人生初の海外旅行に行かせていただきました。行き先は花の都・パリです。
テレビの収録なので仕方ありませんが、分刻みのスケジュールだったのが少し心残り。運が悪いことに、お目当ての美術館が改装中で見学を断念しています。先述の通り神話が好きな私たちですが、幻想の画家ギュスターヴ・モローの絵を見てみたいんです。パリには、モローが生前に住んでいた邸を利用した美術館があるので、今度はプライベートでパリに行ってリベンジしたいですね!
てんとう虫コミックス『あさりちゃん in パリ』(小学館)
2024年12月26日全国発売(予定)
取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略