漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.39 漫画サンデーの転換期
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.39 漫画サンデーの転換期
手塚治虫氏の未完の大作『一輝まんだら』は、1975年(昭和50年)4月12日号で最終回を迎えている。物語は激動のアジアにあって明治から大正・昭和に突入するその渦中で終わっている。「手塚治虫氏は現在第2部を構想中です。ご期待下さい」と編集部からのメッセージがラストページに書かれてあった。第2部の再開を約しての終了であったが、残念ながら実現することはなかった。
実は、最終回を迎えるまえの3月15日号で1回休載している。その時の様子が3月22日号の編集後記に書かれてあった。
「先週は手塚治虫氏カゼのため『一輝まんだら』はとうとう間に合わず、休載という結果になってしまいました。表紙に刷りこんであったため、お怒りの方もあったと思います。休載が決定したのは、表紙が刷り上がったあとでした。どうか、おゆるし下さい」
こんなことがあっての連載終了であった。
この時の3代目編集長・Y氏は物事の決断にあたって、結論を急がない人であった。ある意味で慎重な人でもあった。そんな氏の性格を表している編集後記を見つけた。
「青森にいきました。しかし、なんだって車内販売というものは、あんなに急いで通りすぎてしまうのダロウカ。買おうか買うまいか、迷うまもなく、決心したときにはすでに、はるかかなたである。三度目には、カンビール一つ買えないおのれの決断のふがいなさに、自己嫌悪におちいったのでアリマシタ」
思わず「3回もかい」と突っ込みを入れたくなるような話である。飲み屋に入れば、カシを変えるまで2、3時間は覚悟しなければならなかった。麻雀をすれば、捨牌に慎重すぎて周囲の顰蹙を、といっても編集長なので誰も強くは言えなかった。ただし、原稿の遅い作家に対しては、“動かざること山の如し”の姿勢がいかんなく発揮された。原稿がアップするまで編集長自らひたすら待つのである。当然周囲も帰れない。
『ギャートルズ』より ©そのやま企画
その慎重居士のY編集長が『一輝まんだら』の幕を引いたのである。
雑誌というものは売れ行きが良ければ、全て善し。少々人気の取れない連載があっても文句は言われない。ところが一旦売れ行きに陰りが出てくると、周囲の目は厳しくなる。最後には、雑誌のタイトルロゴのデザインが悪いのでは、なんて意見まで出てくる有様。それはさておき、劇画が主流となっていたこの時期、その流れに乗り遅れた漫画サンデーは、ある意味で窮地に立たされていたと思われる。さすがのY編集長も重大な決断をせざれを得なかったのかもしれない。
この号では、『一輝まんだら』とともにいくつかの作品も最終回を迎えている。
黒鉄ヒロシ氏の『ひみこーッ』、園山俊二氏の『ギャートルズ』、馬場のぼる氏の『ジロさん鴉』、福地泡介氏の『さらばドタゴン』、そして東海林さだお氏の『ショージ君』と錚々たる漫画家が漫画サンデーから去ることになった。
東海林さだお氏は、「下宿生活の思い出を一つ一つ思い出しながら、描きつづけたものである。(中略)下宿生活三年間、その思い出を、七年間描きつづけてきたものである。作者もいまや腹(はら)の出た中年となり果てた。哀惜をこめて青春に、別れを告げ、『ショージ君』にも別れを告げることとします」と、漫画サンデー愛読者に惜別の弁を綴っていた。
Y編集長は、編集後記において「感慨無量」というタイトルをつけて次のように書いていた。
「ごらんのように、長年にわたってわれわれを楽しませてくれた名作、傑作漫画のいくつかが、一応今号でお別れになります。(中略)かえりみますれば……と詠嘆調になったところで、♪別れに涙は不吉だよ、というわけで、漫画サンデー万歳!」
う~む、「一応」という一言に、何を書いても意は尽くせない、といった思いがにじみ出ている編集後記であった。
今にして思えば、「週刊漫画サンデー」が大きく変わる瞬間の号であった。
しかし『会津おとこ賦』(司 敬)、『まんだら屋の良太』(畑中 純)、『まるごし刑事』(渡辺みちお、北芝 健)、『静かなるドン』(新田たつお)などのヒット作が生まれるまでには、さらなる歳月を必要とした。(次回、最終回につづく)