漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.38 内なる宇宙へ…
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.38 内なる宇宙へ…
1971年(昭和46年)、このころ週刊漫画サンデーは現代史に残る人物の作品をシリーズとして取り上げていた。
『一輝まんだら』より ©Tezuka Productions
1月2日号、藤子不二雄氏(現・藤子不二雄A氏)の『毛沢東』、5月8日号には水木しげる氏の『20世紀の狂気 ヒットラー』、10月2日号には芳谷圭児氏の『劇画・資本論 人間マルクス』と戦前から戦後にかけての昭和史を再考しようと漫画で試みている。果たしてこの時代、これら一連のシリーズが読者から支持されたかどうかはわからないが、後年、石ノ森章太郎氏の『マンガ
日本経済学入門』の大ヒットを見ると、漫画による表現の可能性を試みた功績は大きかったのではないだろうか。現在、一連の作品が単行本として再び販売されていることが、その証左である。しかし、そんな試みも1974年(昭和49年)、手塚治虫氏の『一輝まんだら』を最後に誌面から消えて行った。編集方針の変更と思われる。
この時期、外なる宇宙から内なる宇宙・人間へ探究に関心が向いっていったと思われる手塚氏にとって、戦争を挟んだ現代史もそのテーマの一つだったのかもしれない。現代史をテーマにした初の試みだった。
『一輝まんだら』は、タイトルからもおわかりのように北一輝をモデルにしている。物語は、清王朝の末期。義和団事件や孫文による革命運動盛んな時代を描いているが、2.26事件まで描かれることなく未完に終わっている。
この作品を描くきっかけとなったのは、当時手塚氏担当のN氏(漫画サンデー6代目編集長)だった。N氏に日本史を語らせるとちょっとうるさい。特に昭和史を語るにあたって欠かせない人物が北一輝、とよく言っていた。手塚氏はN氏の熱い語りに好奇心を刺激されたのかもしれない。幸い、N氏には東洋史について造詣が深い国会図書館に勤務している友人という強い味方がいた。北一輝関連の資料はすぐに手にすることできたのだが、どうも事は簡単に運ばず、その膨大な資料の前に四苦八苦したようだ。連載スタート時の扉のページを見ると“構想1年!”と仰々しく写植文字が躍っていた。“1年もかかってやっと連載にこぎつけたぞ”と言わんばかりの思いがキャッチに表れていた
ともあれ手塚氏は、ジャンルを問わずにさまざまなことに興味を示したようだ。担当編集者も世の中の新たな動きに対してよく質問攻めにあったと聞く。漫画家にとって編集者は大事な情報源のひとつと聞いたことがある。かといって何でも知っているわけではない。天下の手塚先生に質問されるというのは名誉なことだが、突然の質問に担当編集者は冷や汗ものではなかったろうか。とにかく新しい情報に対しては貪欲であったようで、書籍の中からも作品のヒントをかなり得ていたようだ。
以前紹介したドイツで実際にあった連続殺人事件を扱った作品『ペーター・キュルテンの記録』について、1973年(昭和48年)の週刊漫画サンデー増刊1月1日号の中で次のように語っていた。
「これはノンフィクションに近い物語ですが、掘り下げ方によっては大長編になる可能性も持っています(雑誌の中でのページ構成は、4色4ページ+2色8ページ+40ページ、計52ページの読み切り)。日本で起こったこの種の凶悪犯罪事件で、犯人が強調する理屈に、たいへん似かよっているところがあると思うので、おもしろいと思いました。この物語の骨子は、神田でフト見つけた『家の神』(淡交社刊)という本の中から得ました。偶然の収穫ですが、いまの若い漫画家たちが、その気になれば、いつでも、市販の本の中にヒントが求められます」
40年以上前の話であるが、今でも色褪せない至言である。
同じような時期に不朽の名作『ブッダ』(1972年、『希望の友』)の連載が始まっている。「一度は描いてみたかった」という「希望の友」が生まれる淵源となった雑誌「冒険少年」(日本正学館)から20年以上の時が経っていた。
手塚治虫の大ファンであることを自認している作家・大下英冶氏の『手塚治虫―ロマン宇宙』の中で、次のように書いている。
「昭和四十七年、手塚のそれまで五誌も六誌もあった少年漫画の連載は、『少年ジャンプ』と『少年サンデー』のみになっていた。もちろん、手塚が暇を持てあますはずはなく、小学館の『小学一年生』や講談社の『たのしい幼稚園』などの幼児雑誌などをはじめ、その他の読み切りの漫画、『ビッグコミック』のような青年雑誌の連載をこなしていた。が、手塚の漫画への思いの中で、少年漫画、児童漫画の価値は重かった。それだけに、辛い時期であった。少年漫画雑誌の多くは、劇画を多く取り入れ、読み切り以外での手塚への依頼はなかった。そんな中での、『希望の友』の『ブッダ』の連載開始であった。(中略)このころの手塚の作品の中には、手塚の自分探しの形跡がみられる」
「その他の読み切りの漫画」と書かれてあるが、週刊漫画サンデーの増刊に載った前掲の『ペーター・キュルテンの記録』も時期的にその中のひとつであったと思われる。確かに「自分探し」というか人生の不条理について考えさせる作品だった。
(つづく)
*参考文献/『手塚治虫―ロマン宇宙』大下英治(潮出版)、『日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ 手塚治虫と6人』(ブティック社刊)