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漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.37 一度は描いてみたかった…。

※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。

▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。

ACT.37 一度は描いてみたかった…。

 手塚治虫氏をして「一度は描いてみたかった」と言わしめた雑誌「冒険少年」は、わずか2年でその使命を終えている。そこには小出版ならではの苦しい台所事情があったようだ。
 手塚氏がこの雑誌の中で特に興味を引いた作品は、作家・海野十三と画家・小松崎茂コンビによる『怪星ガン』だったという。この作品は、小松崎氏が後に絵物語としてSFの夢をふくらませるきっかけとなった作品とも言われている。
 余談だが、小松崎茂氏については、私が雑誌『週刊小説』の編集時代に会ったことがある。1974年の頃のことで、以前にもこの欄で紹介したことがあるが、雑誌の中の『有名人の一週間の日誌』を担当していた私は、ファンである小松崎氏に登場願った。千葉県は柏市に氏は住んでいた。書生の方がわざわざ駅まで車で迎えに来てくれた。氏との面談のおり、本人を目の前にして緊張していたのだろう、何を話題に会話したか記憶にない。もし雑誌「冒険少年」の存在を知っていれば、会話も弾んだものになったのではないだろうか。
 小松崎茂氏は、大正4年、現在の東京・荒川区の生まれ。幼少の頃より友人や洋画の先生の影響もあり画家を志す。転機は23歳の時訪れた。挿絵画家・岩田専太郎主催のサイン会で同じ挿絵画家・野口昂明氏から「飛行機が描ける絵描きを欲しがっている会社がある」と声をかけられたのがきっかけだった。その後、軍事兵器を紹介する青少年向けの雑誌等で活躍するが、昭和20年、30歳の時に終戦を迎える。戦時中は戦意高揚の作品を描きつづけたことに罪の意識を感じた氏は、未来の子どもたちに夢を与える作品を描こうと決意。そして生まれたのが『地球SOS』。この作品が絵物語のブームを生み、氏の名前を世に知らしめたと言われている。その後は、円谷英二監督作品『地球防衛軍』のキャラクター、メカニックデザインを手がけ、『宇宙大戦争』『海底軍艦』などの特撮映画にも関わり、怪獣ブームの火付け役になる。(『SF挿絵画家の時代』大橋博之著・本の雑誌社刊より)
 小松崎氏の門下生であり画家の根本圭助氏によると、「昭和二十三年に日本正学館から発行された雑誌『冒険少年』誌上で、かねてより憧れを抱いていた海野十三とコンビを組むことになり、この作品『怪星ガン』は敗戦に打ちひしがれている少年達の間で大評判となっていた」(『日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ手塚治虫と6人』)とある。
 私は、この雑誌を是非見てみたいと思い国会図書館に足を運んだ。当時の雑誌を手に取ってみることはできなかったが、マイクロフィルムという形で閲覧ができた。画像はそれほど鮮明ではなかったが、その時代の雑誌の匂いは十分に伝わってきた。
 創刊は1948年(昭和23年)の1月10日号。定価は20円であった。いきなり創刊号から『怪星ガン』の連載は始まっていた。そのほか文・南洋一郎(冒険小説家、『怪盗ルパン』の訳者としても有名)+絵・山川惣冶(絵物語作家、『少年ケニヤ』が大ヒット)の『謎の笑う佛像』、山岡荘八山岡荘八の小説『ライオンと決闘した男』など当時の子どもが夢中になったであろう作品が並んでいた。
 興味深かったのは、すでに雑誌の中で懸賞募集が始まっていたことだった。連載作品の中から作品の内容や人名に関する問題に答えさせるというもの。ちなみにある号での景品は、特等は顕微鏡、一等が掌中顕微鏡とある。二等は冒険少年バッチ。当時はこれでも少年にとっては宝物だったのかもしれない。
 だが、そんな努力も時代の趨勢には抵抗しがたく、雑誌は売れ行きは衰退の一途をたどっていったようだ。
 「資本力の乏しい(日本)正学館は大きな理想を持って奮闘するが、正に悪戦苦闘の連続だった。大手出版社に徐々に押されていく現実の中、新しい時代の到来を模索し誌名変更という対策が取られることになる。まだ、広告を出すこともままならぬ台所事情だったが、ある日苦心する池田池田(創価学会第三代会長)の心を汲んで小さく広告が載った。戸田(創価学会第二代目会長)の精いっぱいの遣りくりであった」(前同)
 変更された誌名は「少年日本」。当時の池田編集長は「駅やバス停でも、街を歩きながらも、終始少年たちが何を読んでいるか気にしていた。(中略)表紙には当時人気の少年野球を使い、「面白く、為になる」と刷り込み、人気の高い山岡荘八や野村胡堂の小説を載せ、(中略)小松崎茂のパノラマを入れるなど、精いっぱいの工夫をした」(同前)とある。

 起死回生の誌名変更だったが、編集部の努力は報われることはなかった。1949年(昭和24年)の12月号が最終号となってしまう。『冒険少年』は彗星のごとく現れ、そして去って行った。
 結局、手塚氏の作品がこの雑誌に載る機会は失せてしまうわけだが、時は流れ、『希望の友』(潮出版)で『ブッダ』の連載が始まるとき、淵源をたずねればあの『冒険少年』にたどり着くことを手塚氏は意識していたのだろうか。(つづく)

*参考文献/『SF挿絵画家の時代』大橋博之著・本の雑誌社刊、『日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ手塚治虫と6人』ブティック社刊、『山川惣冶[少年王者][少年ケニヤ]の絵物語』三谷薫 中村圭子編・河出書房新社刊

関連書籍
怪星ガン 著者:海野十三
ブッダ 著者:手塚 治虫
火の鳥 著者:手塚 治虫

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