漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.36 幻の雑誌『冒険少年』
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.36 幻の雑誌『冒険少年』
手塚治虫氏について調べていくと、その思考の縦横無尽さに驚かされる。手塚氏にとって森羅万象すべてが興味の対象だったようだ。それを漫画という万人にわかりやすい手法で表現した。知の巨人はもっともわかりやすい形で、人間の深遠なテーマに挑んだのではなかろうか。
『少年ケニヤ』(山川惣治)より ©山川惣治
できるだけ平明な言語で自分の考えや思いを人に伝えることを旨とした中国・唐代の詩人・白楽天にも似たその創作姿勢は、日が経つにつれ輝きを増している。
その手塚氏が、ぜひ描いてみたかったという雑誌がかつてあったという。それは「漫画少年」と同時期に発刊されていた「冒険少年」(1948年・昭和23年創刊)という雑誌だった。
この時期、戦争で焦土と化した中、出版界の戦後復興は目覚ましいものがあったという。各出版社は敗戦からいち早く立ち上がり、数々の雑誌を生んでいった。少年誌に限っていくつか挙げてみると、「少年クラブ」「少年」「野球少年」「冒険王」「おもしろブック」そして先に挙げた「冒険少年」などがあった。
それは1959年(昭和34年)の頃の話。所は東京・初台のスタジオ。締切りに追われていた原稿もやっとアップし、しばしリラックスした気分に浸っていた時のことだったという。手塚氏はアシスタントの平田昭吾氏と斉藤あきら氏に、「突然だけど昔の雑誌で『冒険少年』って知ってたかい?」と聞いてきた。
「え?冒険少年ですか?……」と平田氏が聞き返すと、「昭和23年の頃創刊された少年向け雑誌でね。私が子供のころ大好きだった海野十三先生が小松崎茂さんの挿絵と組んで連載していたんだ」(『日本のレオナルド・ダヴィンチ 手塚治虫と6人』ブティック社刊)と、その雑誌について説明するや、「それじゃあ、見せてあげよう!」と二階の個室に入り、いかにも古い雑誌を小脇にかかえ出てきたという。
実はこの二階の個室というのは手塚氏のプライベートルームで、アシスタントはもちろんマネージャーさえ入室禁止の部屋だったという。二人は、手塚氏によって座卓に並べられたその雑誌を見た時、子どもの頃の記憶が蘇ってきたという。
手塚氏は雑誌のページを繰りながら、「海野先生の『怪星ガン』これなどは、ストーリーにスピード感があって、すごいなあと思いながら読んでいたものでね(中略)僕はこの『冒険少年』に描いてみたいと思っていたんだよ!」(同前)と語っていたという。
さらに、「山川(惣治)先生も、小松崎(茂)さんも描いていてね……。この本からは何か特別な情熱みたいなものを感じたよ。(中略)僕はまだ医学生だったし、将来のことも決めかねていた時期で、単行本も描いていたけれど雑誌での連載もすごく魅力的だったんだ。(中略)でも、この雑誌は僕が上京したころには廃刊になっていたんだ。君たちも知っているように、僕は作品の発表の場を与えてくれる依頼があれば、どんな媒体でも描いてみたいと思っているけれど、自分から是非描きたいと思った雑誌は、当時はこの本くらいだったねエ……」(同前)
結局、「冒険少年」で描きたいという夢は実現せず、同時期に発刊されていた「漫画少年」の編集長・加藤謙一氏との出会いから、手塚氏の漫画家としての人生が大きく拓けていくことになる。
ここで、海野十三(1897年~1949年)氏について少々触れておきたい。名前の呼び方は、うんのじゅさと呼ばれていたが、うんのじゅうぞうとも呼ばれていたという。どちらの読み方が正しいのか定かではない。
海野氏は、早稲田の理工の出身で、電気・科学に精通していた。肩書には、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家とある。デビューは『電気風呂の怪死事件』という探偵小説だった。日本SFの始祖のひとりと呼ばれている。52歳という若さで他界するが、小説家の横溝正史氏との交流はつとに有名。また、松本零士氏の『宇宙戦艦ヤマト』に出てくる初代艦長に沖田十三という名前を付けたのは、松本氏が海野作品のファンだったためと言われている。そもそも海野十三というペンネームは、麻雀好きだった氏が考えたもので、「麻雀は運が十さ」ということから生まれたペンネームらしい。
ペンネームや作中人物のネーミングに関しては、ちょっとしたドラマがあるようだ。ちばてつや氏の『ハリスの旋風』に出てくる主人公・石田国松は、ちば氏が高校生の時に漫画家としてデビューのきっかけをつくってくれた出版社の社長・石橋国松からとっている。社長へのオマージュである。『静かなるドン』の作者・新田たつお氏のペンネームは友人の名前をいただいている。一方、文豪・山本周五郎氏が、銀座にあった質店に住み込みの徒弟だった時の店主の名前をペンネームにしていることはつとに有名である。また池波正太郎氏の小説に出てくる悪党の名前は、各社担当の編集者の名前が多く使われたようで、バッタバッタと斬り捨てられたという。よほど編集者が憎かったのか。いや、これはむしろ逆で、池波流担当編集者へのオマージュだったのではなかろうか。
さて、手塚治虫氏をして「この雑誌には描きたかった」と言わしめた「冒険少年」とはどんな雑誌だったのだろうか……。
画家・根本圭助氏(小松崎茂門下生)は次のように語っている。
「昭和23年に日本正学館から発行されていた雑誌『冒険少年』誌上で、(小松崎茂は)かねてより憧れを抱いていた海野十三とコンビを組むことになり、(中略)『怪星ガン』は敗戦にうちひしがれている少年達の間で大評判となった。発行元の(日本)正学館は戸田城聖氏(創価学会第二代会長)が経営する出版社で、昭和二十四年一月から池田大作氏(創価学会第三代会長)が編集に携わった」(同前)
しかし、この雑誌はわずか2年という短い期間でその使命を終えている。そこには一体何があったのか?(つづく)
*参考文献・『日本のレオナルド・ダヴィンチ 手塚治虫と6人』(平田昭吾/根本圭助 ブティック社刊)