漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.35 予定は未定
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.35 予定は未定
雑誌「漫画少年」に漫画を投稿した少年さいとう・たかを氏は、投稿の審査をしていた手塚治虫氏から「子どもの描く漫画ではない」と酷評されてしまった。その時の心境が『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを一代』(新潮社刊)中に書かれている。
「中学生時分に、友人とある漫画の完成度を言い争ったことがあった。話はどこまでいっても平行線を辿り、ついには、私の意見が正しいのなら『漫画少年』で通用するはずと言われ、投稿したことがあった。しかし、結果は無残そのもので、手塚先生に悪い見本として取り上げられ、アイデアも絵のタッチも子どもらしくないと酷評された」
普通なら人気漫画家からの容赦のない指摘に落ち込んでしまうのだが、さいとう氏は違っていた。逆にこのことが、氏の闘争心に火をつけた。
「ストーリーには自信があった。『のらくろ』の延長線上にあった日本の漫画界で、今は通用しなくても、やがてバットマンやスーパーマンのようなストーリー性の強い漫画の時代がやってくるに違いない、その暁には見ていろよと、情熱をふつふつとさせていた」と。
さいとう氏を大ヒットメーカーに育て上げたのは、ある意味で手塚氏なのかもしれない。痛烈な巨匠の言葉は、眠っていた才能を世に引き出すきっかけになったともいえる。
そのほか、この漫画雑誌には意外な人物が投稿していた。
イラストレーターの黒田征太郎氏である。投稿の常連だったようだ。黒田氏については、私が野坂昭如氏の担当だったころ、野坂氏がらみのパーティか会合で見かけたことがあるが、直接言葉をかわしたことはない。ルポライターの沢木耕太郎氏は黒田征太郎氏について『錨のない船』の中で次のように書いている。
「征太郎は小さい時から漫画が好きで、暇さえあれば机に向かって読むか描くかしていた。三、四歳の頃は切紙が大好きで、紙とハサミを与えておけばご機嫌だったという。子供とは思えぬほど見事な戦艦を切って、大人たちをアッといわせたこともあった。少し大きくなってからは、漫画を描いた。手塚治虫の大ファンで、『漫画少年』に投稿して、自筆の葉書を貰ってからはなお一層熱中した。石ノ森章太郎や赤塚不二夫は、この時の投稿の常連であり、いつも入選している彼らにコンプレックスや憧れを感じていた、という。彼は万年佳作組だった」
沢木耕太郎氏の本を読んでいて、まさか「漫画少年」の話に出くわすと思わなかった。しかも黒田征太郎氏までが……。あらためて「漫画少年」が当時の少年の心をわしづかみにしていたことを知った。
『人間ども集まれ!』より ©Tezuka Productions
ある意味で、「漫画少年」を不動の人気漫画誌にしたのは、手塚治虫氏の存在がかなり大きかったのではなかろうか。
「週刊漫画サンデー」1967年1月25日号で手塚氏の大傑作『人間ども集まれ!』の連載がスタートしたが、この号の編集後記に峯島正行編集長は手塚氏をはじめ漫画人気とともに漫画家が若者に支持されていることについて言及している。
「某週刊誌が“いい感じの日本人”はどんな人たちか、というアンケートを六大学の学生にしたところ、二十位以内に白土三平、サトウサンペイ、手塚治虫の三氏が入っていたそうです。三十五位までとると長谷川町子女史も入る」と。
漫画に対する偏見がまだ根強く残っていた時代から変貌を遂げつつあったこの時代、若者の心は漫画家の魅力を鋭くとらえていた。
実はこの1年前、手塚氏は航空機事故に遭うところを助かっている。再び峯島氏の編集後記(「週刊漫画サンデー」1966年3月9日号)より。
「手塚氏は、全日空機が墜落事故をおこした二月四日、ちょうど札幌に行っていて、あの飛行機で帰る予定にしていたそうですが、当日、急に用事ができて、キャンセルしたそうです。『僕がキャンセルした席に乗って死んだお気の毒な方もいるわけでしょう。人の運命は本当に微妙なものですネ』と語っていました」
誰にでも起こり得る事故。まさに“人生、一寸先は闇”である。もし、この時に手塚氏がこの事故機に乗っていれば、1年後の『人間ども集まれ!』は生まれず、その後の傑作群は生まれなかったことになる。
週刊漫画サンデーで手塚氏の担当をしていたN氏(6代目編集長)にこの話をしたところ、手塚氏は飛行機に乗る予定の時間を守ったことがほとんどなかったのではないか、と言っていた。いつも締め切りに追われ乗る予定の飛行機をキャンセルするのは日常茶飯事だったという。予定は未定、といった仕事の進めかたが手塚氏の命を救ったとも言える。これで手塚氏が飛行機を嫌いになったかといえば、そうでもないらしい。むしろ精力的に飛び回っていたというからスゴイ。(つづく)
*参考文献・『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを一代』さいとう・たかを著(新潮社刊)、『沢木耕太郎ノンフィクションⅡ 有名であれ無名であれ』沢木耕太郎著(文藝春秋刊)