漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.33 編集は知力より体力!
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.33 編集は知力より体力!
かつて不条理な四コマ漫画を持ち味とした人気漫画家がいた。彼が某有名週刊誌で連載を持っていた。ある時その連載は突然終わっていた。私は、彼のことだからきっと「締切りを守らなかったことが原因で連載が終わったのでは?」と聞いたことがある。なぜなら、かつて「週刊漫画サンデー」で連載していた頃、原稿がなかなか入らずに随分と泣かされたことがあったからである。その彼曰く、「そんなことないですよ。だって、手塚先生の原稿は僕よりも遅かったですよ」。
返す言葉もなかった。なるほど、彼は、手塚先生の原稿が間に合っているのだから、十分締切りに余裕があると踏んでいたわけである。手塚先生と対等に原稿の締切りを競っていたことを誇りと思っていたのか、いっこうに悪びれた様子もなかった。
『手塚治虫エッセイ集』より ©Tezuka Productions
さて、今回も手塚治虫先生の締切りに関する逸話(『「父」手塚治虫の素顔』手塚眞著より)である。少々引用が長くなるが、面白い、と言っては失礼だが当時の編集者の苦労がよくわかるので紹介したい。
「父の結婚前の仕事場は特に壮絶だったようです。二十四時間必ず誰かそばで見張っていて、眠る暇もあたえないのです。もちろん、ついている手塚番だって眠ってはいられません。うたた寝している隙に逃げられてしまうからです。(中略)父は同時に何誌もの連載を抱えていました。だいたい月に平均二百ページくらいの原稿を描かなければならなかったのです。最高で六百ページ描いたこともある。そんな時は暗黙のルールで、週刊誌、月刊誌、単行本、という順番で仕事を進めるのです。週刊誌なら発売日が重なることもあります。(中略)どちらが先に原稿を上げてもらうかでつかみ合い、殴り合いに発展することもあります」
淡々と当時の様子を子息の眞氏は描いているが、当事者にとってはまさに修羅場。その時の様子は以下の通りであった。 「父は(つかみ合い寸前のふたりの)その前にでて行って、『ぼくは見ていますから、どうぞやってください。勝ったほうの原稿をやります』」なんて恐ろしいことを言ったとか」
まるで嘘のような話だが、本当のようであった。手塚番に一番必要だったのは“押し”と“腕っぷしの強さ”だったのではなかろうか。
驚いたことに、中には本当に気の短い手塚番がいて、手塚氏に手をかけた人物がいたというのだ。再び手塚眞氏の著書によると、その人物は原稿がなかなか上がらないことに怒り心頭に発し、なんと巨匠に掴みかかったというのである。
「父は即座に編集長に電話をかけ、担当を替えてください、といったそうですが、編集長もできたもので『担当を替えるくらいなら、あなたのほうを切ります』と言ったらしい。それから父は何もなかったように仕事をつづけたそうです」
なんともコメントしようがない。大先生に掴みかかった編集も凄ければ、それなら連載を切りますと言った編集長も凄い。しかし、そんなことがあったにもかかわらず、そのあと何事もなかったように仕事をつづけた手塚治虫氏はもっと凄い。まさに凡人の理解を超えた人物である。
このくだりを読んで、ふと私が編集長の頃を思い出した。ある連載物について担当の態度が悪いので替えてほしいという電話が某氏からかかってきた。私は丁重に「替えることはできません。もし担当が不都合なことを起こしたならば、きちっと指導しますので」と謝ったが、相手は「あ、そう。私が言っても聞き入れてもらえないんですね」とちょっと怒気を含んだ声で電話は切られた。私の場合は、以後その方とは気まずいままで関係が修復されることはなかった。編集長にとって作家は大切な存在だが、部下は別の意味でもっと大切な存在だ、と先輩から教わった覚えがある。編集長を経験した人なら、このような場面に一度ぐらいは遭遇したことがあるのではないだろうか。
さて、あの石ノ森章太郎氏も実は手塚治虫氏の洗礼?を受けたひとりだった。それは石ノ森氏がまだ漫画家を目指していた宮城県在住のころの話である。突然、手塚氏から「シゴトヲ テツダッテ ホシイ」との電報をもらったことから始まる。大先生からの電報に狂喜乱舞した石ノ森少年は、高校を休み上京。そこに待っていたのは、あこがれの『鉄腕アトム』の手伝い。具体的には、その『鉄腕アトム』の付録・電光人間の巻を手伝うことだった。
「しかし、待機するも……肝心の原稿がなかなか届かない。担当編集者の話から推察すると、どうやら他社の別の原稿と並行で描いているらしい」(『章説 トキワ荘の春』石ノ森章太郎著より)
結局、待機している時間ももどかしく思った石ノ森少年は、担当編集者にある提案をする。
「……何枚か下書きを纏めてもらって、それを持って家に帰りたいんですが……。家でやって、出来次第直ぐに返事しますから……。実は―――明後日から中間テストがあるんです」(同前)
結果、学校のテストをこなしながら苦労して仕上げた原稿は、かなり訂正されていたようだ。
「それはそうだろう。クセの強い石森アトム、石森ヒゲオヤジでは、なおさざるを得ないのだから……」(同前)と述懐していた。
それにしても漫画少年の手を借りても原稿を仕上げようという、鬼気迫る手塚氏の執念には、驚嘆に値する。 (つづく)
*参考文献・『「父」手塚治虫の素顔』手塚眞著(新潮文庫)、『章説 トキワ荘の春』石ノ森章太郎著(清流出版刊)