漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.25 漫画研究会
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.25 漫画研究会
「週刊漫画サンデー」(マンサン)の兄弟誌「サンデーまんが」(1983年~1986年)では各大学の漫研レポート「ぼくらの漫研」を連載していた。第1回は、国際基督教大学。第2回目は東京経済大学でアニメが盛んだった。その後、東京学芸大学、成蹊大学、武蔵野美術大学とつづいた。文・構成を漫研のメンバーに任せた学生手作り企画で好評だった。しかし、この企画は短命に終わった。
実は1985年あたりになると「サンデーまんが」自身の実売部数がかなり厳しい状況にあり、一発逆転の企画に走るあまり、じっくりと一つの企画を育て上げていくという余裕がなくなっていた時期でもあった。残念ながら、この企画は途中で頓挫してしまうが、長くつづけたかった企画の一つであった。このような企画が生まれたのも、身近にマンサンのアルバイトとして早稲田大学の漫画研究会のメンバーがいたからであった。
マンサン編集部では、早稲田大学漫画研究会のメンバーに漫画家の原稿取りの手伝いをしてもらっていた。このコラムで早稲田の漫研について触れたところ、同大学漫研出身の漫画家・けらえいこさんが、自身のホームページで紹介してくれた。
「当時、まだ編集長じゃなかった上田さんのコラム発見! 大学時代、原稿取りのアルバイトをしていました。大日本印刷もよく行ったなぁ。プロに会えるのも、豪華なお弁当も、超楽しみでした。上田さん、その節はお世話になりました!」
「けらさんのホームページに載ってるよ!」と教えてくれたのは、マンサン編集部の後輩Yだった。ホームページで扱ってくれたことより、私の拙文を見ていてくれたことが嬉しかった。
けらさんは、大日本印刷出張校正室で出されていた弁当を「豪華」と語っていたが、出張校正暮らしの長い私たち編集には、毎日似たようなおかずの弁当に飽きていた(大日本印刷の食事担当の方、すみません)。時折、出前を頼んで贅沢していたが、タダで食べられる弁当は学生アルバイトには好評で、おいしそうに食べていた。普段、質素に生活している学生にとっては最高の御馳走だったのかもしれない。
けらさんについては、アルバイトの精算伝票に、螻川内(本名・けらかわうち)という普段見慣れない珍しい名前が書かれてあったので、よく覚えていた。その螻川内さんが、その後漫画家として活躍していたけらさんだったとは、しばらく気が付かなかった。それを教えられた時には驚いた。実際のところ、アルバイトのころは、名前は変わっていたが、普通の女の子にしか見えなかった。「あの子にあんな才能があったとは?」というのが正直な気持ちだった。
1987年に『3色みかん』(小学館・ヤングサンデー)でデビューしたが、何と言っても1994年に読売新聞日曜版で連載スタートした『あたしンち』の大ヒットがけらさんの名を高めた。この作品で1996年には第42回文藝春秋漫画賞を受賞、アニメにもなって「今や国民的漫画家だ」なんて言う声も聞く。嬉しい限りである。
『ガタピシ 平太とガタピシのなが~い一日』より ©園山俊二
これまでに何回か漫研の話を取り上げてきたが、このコラムの担当・照井氏より素朴な疑問を投げかけられた。それは、「なぜマンサンには早稲田の漫研が専属のようにアルバイトとして働いていたのか?」というものだった。そのきっかけが知りたいというのである。言われてみれば確かにそうである。前述の漫研レポート「ぼくらの漫研」ではないが、早稲田以外にも漫研のある大学はたくさんあった。「早稲田の漫研がいつから、そしてなぜマンサンのアルバイトに?」という疑問は当然である。しかし、私自身途中からマンサンに配属された身、その起こりを知る由もなかった。
そこで私は、マンサン初代編集長である峯島正行氏を訪ねた。その辺のことを聞いてみると、一冊の本を手渡された。峯島氏が著した『ナンセンスに賭ける』(青蛙房刊)である。ここに詳しく書かれているということだった。ページを繰ると、ナンセンス漫画黄金期といわれる1959年から1969年にかけてデビューした漫画家とマンサンとの交流が描かれた部分があった。特に早稲田大学漫画研究会から偉大な3人が生まれたことが詳しく書かれてあった。園山俊二、福地泡介、東海林さだおの3氏である。ともに昭和30年代はじめの早稲田大学漫画研究会出身。のちに朝日新聞で園山俊二氏の『ぺエスケ』、毎日新聞では東海林さだお氏の『アサッテ君』、日本経済新聞には福地泡介氏の『ドーモ君』が、紙面を飾った。同じ大学、同じ漫研出身の漫画家がしかも同時期に全国紙を飾るというのは、かなり画期的な出来事だった、と峯島氏は自著の中で書いている。
では、なぜマンサンに早稲田の漫研が出入りするようになったのか? それを知るには1959年(昭和34年)以前に遡らなければならなかった。(つづく)