漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.26 初代編集長・峯島正行の奇手
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.26 初代編集長・峯島正行の奇手
峯島正行氏が「週刊漫画サンデー」(以後マンサン)の初代編集長に就いたのは1959年(昭和34年)8月、氏が33歳の時だった。若き週刊誌編集長の誕生であった。
表紙は横山隆一氏の絵。ナンセンス漫画を雑誌の柱としていたが、読み物も充実していた。連載小説は山田風太郎氏の『江戸忍法帳』、コラム連載では人気落語家・林家三平氏の『三平の身の下相談』などがあった。特集記事というのもあって『20年間埋もれた戦中秘話』と題し“昭和犯罪史上もっとも戦慄すべき十大犯罪。一切の報道が禁止されて今日の一般に知られていない事件の真相は?”といった週刊新潮の『黒い報告書』を彷彿とさせるリードが躍っていた。漫画家では、杉浦幸雄、横山泰三、清水崑、近藤日出造、小島功、那須良輔、佐藤六朗といった錚々たるメンバーが笑いを競っていた。当時のマンサンは、色と欲を扱ったスキャンダラスな記事とユーモラスな漫画が絶妙にマッチしていた。ともすると下品な誌面に陥るところを知的ユーモアが随所にちりばめられ、絶妙なバランスで大人の品格を保っていたように思える。
ところが、そんな豪華な内容に反し、実売部数は伸びずに悩んでいた。
峯島氏は、マンサンの実売が伸び悩んでいる原因を“マンサンでしか読むことのできない新しいヒーローを生み出していない”ことだと考えた。そこで当時、才能があるのに安い原稿料で各誌に重宝がられ描きまくっていた漫画家・富永一朗氏(杉浦幸雄氏の弟子)に着目した。かねてより、氏の才能を見抜いていた峯島氏は、これではせっかくの才能も枯渇してしまうと懸念していた。そこで、他誌にない原稿料を払い、マンサンの専属にしようと考え、実行に移した。この峯島氏の考えに近藤日出造氏は「君の言う通り、不当な報酬で、才能が酷使されるのは不合理だ。君のいう独占契約は漫画家の地位向上にもつながるから、断行すべきだ」と励ましている。当時、富永氏の原稿料は1ページ3500円だったそうだ。峯島氏はその原稿料を1万5000円に値上げし、月に3万円の嘱託料を支払うことを約束した。こういう経緯があって始まったのが『ポンコツおやじ』だった。
因みに、1960年代のサラリーマンの平均月給は1万8000円くらいだったそうだ。マンサンの定価は30円(特大号40円)のころの話である。マンサン専属となった富永氏の1ページの原稿料は、サラリーマンの平均月給に近かった、ということになる。
大胆不敵にもリスクを恐れず実行に移したものだ。今日では専属契約という言葉はよく耳にするが、この当時こんなことを考えた編集長は、峯島氏くらいではなかったろうか。
そしてこの英断は功を奏し、マンサンの部数は上向き始めたのである。
『国境の二人』より ©園山俊二
かつて漫画は社会的に下に見られていたが、時代は漫画ブーム、新しい風が吹き始めていた。漫画家志望の学生が出始めたのである。以前では考えられないことだったようだ。峯島氏は創刊と同時に誌面の充実を図るために、各大学の漫画研究会の学生との交流も始めている。特に早稲田大学漫画研究会との交流は濃密だった。
そもそも早稲田大学漫画研究会は、1954年(昭和29年)に早大英文科の講師で漫画家でもあった三浦修氏によって創設された。実は、マンサンと早大漫研との関係が生まれたのは漫画家でもあった三浦氏との縁によるものだった。マンサン創刊当時は、福地泡介氏、東海林さだお氏はまだ学生だった。園山俊二氏はすでに卒業し、児童漫画家として活躍していた。
峯島氏が園山氏をマンサンに起用するきっかけとなったのは、『国境の二人』(登場人物は二人だけ。国境の鉄線を境に対峙する二人。太陽、地平線、雲、空、大自然には国境という鉄線はない。この雄大な大自然が二人の心に変化もたらす。いつしか友情が…。)という自費出版の作品に出会ったことからだった。この作品にいたく感動した峯島氏は、すぐに園山氏に手紙を書いたそうだ。「会いたい」と。まるでラブレターである。この時、園山氏は30歳前後だった。
園山氏は、峯島氏の依頼に、二つの作品を描いてきた。ひとつはSFもの、もう一つはおおらかでのびのびした原始の世界。峯島氏の直感なのだろうか、この時、後に園山氏の代表作となる原始世界を描いた漫画の方を採用する。タイトルは園山氏の考えた『ギャートルズ』(1965年に掲載)に。果たしてそれは期待通り人気作品となった。
これに気をよくした峯島氏は、早大漫研出身の漫画家はヒットするという験を担ぎ、福地氏の『ドボン氏』(1966年掲載)を、さらに東海林氏の『ショージ君』(1967年掲載)を起用し、見事つぎつぎとヒットを飛ばした。
峯島氏は自著『ナンセンスに賭ける』の中で「学生時代から漫画作家を志した者が多数現れ、その学生たちが集まって研究団体が作られるという事態になったのは、園山、福地、東海林の時代をもって嚆矢とする」と書いているが、この3氏の登場は、劫を経るに従いその存在の偉大さを増している。(つづく)
*参考文献・峯島正行著『ナンセンスに賭ける』『近藤日出造の世界』(ともに青蛙房刊)