【漫画家のまんなか。vol.20 藤原カムイ】「きっかけは些細です。好きになるだけ」 漫画家・藤原カムイが語る“創作の流儀”
トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。今回は、ファンタジー漫画の名手・藤原カムイ先生がゲストです。
現実にはない架空世界の風景から、華麗なバトル・アクションまで――卓越した画力で描き切り、読者を魅了してきた藤原カムイ先生。その技法も、手描きからパソコンを駆使したデジタル作品まで、様々な工夫を重ねてきました。
創作の原点には、常に“好き”な気持ちがあったと言います。漫画を読みふけった少年時代から漫画家デビュー後の画業、そしてこれからの展望までをお聞きしました。
▼藤原カムイ
1959年、東京都生まれ。本郷学園高校デザイン科、桑沢デザイン研究所卒業。
デザイナー、編集者をしながら漫画を描き、1979年に『いつもの朝に』で第18回手塚賞佳作を受賞(藤原領一名義)。1981年、『バベルの楽園』を「マンガ宝島」に発表して商業誌デビュー(藤原神居名義)。1987年、「コミックバーガー」に『雷火』(原作:寺島 優)を連載し人気を博す。1991年から「月刊少年ガンガン」に『ドラゴンクエス ト列伝 ロトの紋章』(原作:川又千秋・小柳順治)を連載、2004年より続編の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章~紋章を継ぐ者達へ~』(脚本:映島 巡、梅村 崇、監修:堀井雄二)を「ヤングガンガン」に連載。その他『犬狼伝説』(原作:押井 守)、『精霊の守り人』(原作:上橋菜穂子)など代表作多数。
漫画の黄金期に育った少年時代
1959(昭和34)年9月23日、僕は東京の下町・荒川区で産声を上げました。この年は奇しくも「週刊少年マガジン」(講談社)と「週刊少年サンデー」(小学館)が創刊された年でもあります。月刊から週刊へ――少年漫画の世界が大きく変わろうとしていました。昭和40年代を“漫画の黄金期”と呼ぶ人もいますが、僕は良い時代に生まれたのだと思います。
1963(昭和38)年7月、第三の漫画週刊誌である「週刊少年キング」(少年画報社)が誕生。僕の家は和菓子屋兼飲食店でした。団子やあんみつなどの甘味に加えて、ラーメンやカレーライスなどの軽食を出すお店ですね。店のテーブル下の網台には、いつもお客さん向けの漫画週刊誌や雑誌が置いてあるという環境でした。やがて「週刊少年キング」の虜(とりこ)になっています。幼少期ながら絵の動きを追うだけで充分に楽しむことができました。今から思えば、こうやって漫画の構成を学んでいたのかもしれません。白土三平先生のハードカバーの単行本『サスケ』(青林堂)をくれたのは、貸本屋を営んでいた隣家のおじさん。
これが僕と漫画の初めての出会いです。この時代のことは、僕の自伝的漫画『ROOTS』に描いています。3歳で漫画好きとなった僕ですが、その思いが輪郭を持った目標に変わったのは小学校に入ってからのこと。教室で漫画を模写する友人と出会い、好きな漫画の話題で意気投合したんです。
友人は、藤子・F・不二雄先生の『ベラボー』を模写していました。この作品の主人公は、宇宙ガメのベラボーです。その丸い輪郭がよく再現されていて、まさに“藤子キャラ”だと感心しました。さらに驚いたのは、彼が扉絵から模写して、タイトルの題字まで模写していたこと。題字まで描いてこそ、一つの作品としてコンプリートできるわけです。当時の僕にはそうした発想がなかったので、ダブルでショックを受けました。僕も負けじと“円”を描く練習をしましたが、なかなか上手に描けなかった。消しゴムをかけては描き直す――その繰り返しでノートがボロボロになりました。
手塚治虫『マンガのかきかた』に触発される
この年のクリスマスに、母が一冊の本をプレゼントしてくれました。手塚治虫先生の*『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』です。漫画の道具から描き方まで紹介する解説書で、当時としては画期的な内容でした。絵を描く道具と言えば、鉛筆しか知らなかった僕。カブラペンや開明墨汁を使って描けば良いのだと、そこで初めて知ったんですね。
(*『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』=1962(昭和37)年刊行。秋田書店「冒険王」編集部の編集によるもの。)
だけど、まだ道具の入手が難しい時代のことです。文具店でカブラのペン先を見つけて「手塚先生のペンだ」と喜びましたが、お金が足りず買うことができませんでした。なんとか小遣いを貯めてカブラペンを購入すると、楳図かずお先生の『猫目小僧』(「週刊少年キング」連載)を模写しています。この模写が実家の店内に飾られて、子ども心に嬉しかった記憶があります。
その文具店には、カブラペンの他に「パラパラ漫画つきメモ用紙」も売っていました。これも小学生の僕には“高嶺の花”だった。でも、「小遣いで買えないなら自分で作ろう」と思ったんです。教科書やノートの端に、鉛筆でパラパラ漫画を描くようになりました。1963(昭和38)年から、国産初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』が放映。その成功を皮切りに、テレビアニメが急速に普及してきていました。
パラパラ漫画は、人間の目の“残像効果”を利用したアニメーション手法。紙と鉛筆があれば、誰でもアニメ作りを楽しめるというわけです。描かれた紙をめくると絵が動いて見える仕組みですが、一連の動きを中割りする枚数が多いほど、動きは丁寧に見えます。反対に少なくすると、速く動いて見えるのが特徴です。実際にパラパラ漫画を描いてみると、アニメ作りの苦労がよく分かりました。漫画も描きながら、アニメにも携わっている手塚治虫先生。その脅威の仕事ぶりが分かって、子どもながらに驚きました。
少年時代に集めたピンナップが役に立つ
小学校高学年になると、「週刊少年キング」連載作品では望月三起也先生の『ワイルド7』、松森 正先生の『木曜日のリカ』(原作:小池一夫)あたりが好きでした。とにかく、絵がお上手な先生の作品が好きでしたね。雑誌のピンナップを切り取って集めていたのですが、それが後に思わぬかたちで役立つことになります。
近年、漫画原稿の保管の難しさが問題となっています。散逸してしまうケースも少なくないし、残っていたとしても保管状態によっては劣化・退色してしまうこともあるんです。これは僕の個人的な活動ですが、長年保管していた雑誌のピンナップをスキャンして、パソコンでレタッチ・復元しています。この活動を知った編集者の方から声が掛かり、書籍への収録に協力したこともあります。『あすなひろしセレクション1 砂漠の鬼将軍』(あすなひろし企画室)では、原画散逸部分のカラーページ復元に協力させていただきました。
こういった復元の様子を、SNSで紹介したこともあります。でも、これがなかなか大変だった。通常、一枚の絵の復元に丸一日かかります。それをYouTubeに投稿する動画を撮影するため、もう一度作業をやり直したんですね(笑)。苦労もありましたが、みなさんにこの活動を知ってもらえると嬉しい。
絵を描きたい一心で、本郷学園高校に入学
高校は、私立の本郷学園に進学しました。今はなくなってしまいましたが、当時はデザイン科があったんですよね。とにかく絵の勉強がしたかった。高校で絵の勉強ができるなら、ここが“うってつけ”だと思ったんです。
当時の東京では、美術を学べる高校は本郷学園を含めて二、三校くらいしかなかったと思います。僕と同じような思いを抱いている少年たちが、ここに集まってくるわけです。そのためもあって、本郷学園は有名人を多く輩出しています。僕は漫画劇画部に入りましたが、部の創設者は『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本 治先生。僕より7年くらい先輩だったと思います。
漫画を描いて「出版社の賞に応募しよう」とか、そういった気持ちはまだありませんでした。だけど漫画劇画部の活動では、「こぴいし」という会誌を定期的にまとめていました。文字通り“コピー”で作成する同人誌です。あと、セルアニメや実写の短編映画も作成しています。秋本 治先生は、高校卒業後にタツノコプロでアニメーターになっていますが、アニメ業界に進む先輩方が多くいたんですね。そういったご縁があったのでしょうか。アニメ会社の東京ムービー(当時)へ行って、アニメを作る材料を買わせていただいたこともあります。
当時のアニメ会社では、ゼロックスという印刷機を使ってセルに線画をプリントしていました。本郷学園は恵まれた環境を用意してくれましたが、さすがにゼロックスまでは置かれていなかった。そこでロットリングという製図用のペンで、線画をセルにトレースするんです。だけど描いているうちにセルが削れて、ペン先が詰まってしまうのが難点。僕は“詰まり取り”の名人で、クラスのみんなに重宝がられました。
卒業制作では、アニメーションを一本仕上げています。家族にも少し手伝ってもらいましたが、基本的に一人で作成したんですよ。『流れの果てに』という作品ですが、現在YouTubeで公開しています。投稿にあたっては、当時の8mmフィルムを元に一部修正しています。現存する背景画などを新たにスキャンして、静止画部分を差し替え。見やすい形にしたんです。さらに音楽も当時のものではなく、2019年に後付けしたものです。今見直すと、高校生が作った割にはよく動いていると思う。卒業制作を完成させた達成感は、その後の自信に繋がったと思います。
専門学校の仲間とユニットを結成
高校卒業後は、桑沢デザイン研究所に進学しました。当時は好景気の真っただ中。広告や出版業界も潤っていて、グラフィックデザイナーやコピーライターの即戦力として働ける若者が求められていました。そんな中で、この専門学校はたいへん評価が高かったんです。だけど本郷学園でデザインの基礎を学んでいたから、一から勉強をやり直すことに退屈してしまったのも事実。僕にとっては、高校でやったことの“おさらい”だったんですね。
それでも課題が多い学校だったので、かなり鍛えられたと思います。「死人が出るんじゃないか」と思うほどの課題量でした。学生でありながら、社会に出て通用するような内容をこなしていたんですね。だから友人とデザインユニットを組んで、音楽関係の仕事なんかを引き受けたりしています。全然お金になりませんでしたが、音楽とデザインという思考はこの時から続いています。漫画に関して言えば、高校時代から描き溜めていた『彼方へ』という作品がありました。桑沢時代にも、この作品をコツコツと描き続けています。サンポウジャーナルから出版されていた「コスモコミック」に掲載される予定でしたが、その前に倒産してしまいました。この作品は未完成ですが、後に単行本に収録されています。
専門学校卒業後のある日、デザインユニットを辞める決意をしました。するとユニットの一人が、「友だちを紹介する」と言ってアリス出版に繋いでくれたんです。そこで嘱託の編集者をやっているうちに、担当する雑誌の中に自分の漫画を掲載する機会ができたりしました。さらにアリス出版に出入りしていた高取 英(たかとりえい)さんに出会うことができました。漫画の編集者であり、評論家であり、劇作家としても活躍された方です。彼から「今度うちでも描いてよ」と声を掛けていただいて、「マンガ宝島」(宝島社)という雑誌に描かせていただきました。藤原神居名義で描いた『バベルの楽園』、僕の商業誌デビュー作品です。高取さんには、その後も長らくお世話になりました。彼が手掛けた演劇のポスターを任せていただいたのも良い思い出です。
人との出会いに恵まれて
『バベルの楽園』をデビュー作としていますが、その少し前に「週刊少年ジャンプ」(集英社)に投稿した『いつもの朝に』で手塚賞佳作を受賞しています(藤原領一名義)。残念ながらこの作品は、本格的な連載には繋がらなかったんです。編集者の方から「こういう作品を描いてください」と見本をいただきましたが、それがテニス漫画だった。「これは描けない」と思いました。この時の連載話は、それっきり立ち消えとなっています。
今でこそファンタジーは超人気ジャンルですが、当時の漫画界では“下の下”という存在だったんです。初期のSF漫画も、読者の認知を得て“市民権”を得られるまでに時間がかかりました。ファンタジーは、児童文学を足掛かりに発展してきただけに、“大人のもの”として受け入れられるまでに、さらに時間がかかったのかもしれません。1980年代初頭、私の描きたい作品はまだ理解されなかったのだと思います。
そんな時に大塚英志さんに出会ったんです。今は評論家、漫画原作者として知られる彼ですが、当時は嘱託の編集者として複数の出版社を掛け持っていました。彼とのご縁で、「漫画ブリッコ」(白夜書房)や「別冊アニメージュ SFコミックス リュウ」「プチアップル・パイ」(以上、徳間書店)などの雑誌に漫画を描きました。
すると、今度は「プチアップル・パイ」に掲載した作品を見ていてくれた、双葉社の関係者が声を掛けてくれたんです。同社の「月刊スーパーアクション」での連載話をいただいて、『チョコパ』こと『チョコレートパニック』を描きました。この作品には『トリプル・パンチ』という下元克己先生の漫画の影響があります。僕が少年時代に読んだ「週刊少年キング」連載の漫画ですが、囚人服を着た三人の主人公が活躍する話。「こんなエスプリが効いた作品を描いてみたい」と長年思っていたんです。
「月刊スーパーアクション」は、諸星大二郎先生や星野之宣先生などSF漫画の大御所を多く抱えていました。この雑誌の読者なら、シュールなコメディも受け入れてくれると思って『チョコパ』を連載しました。SFの名作に混じって掲載されたことも、この作品の面白いところですね。
原作との掛け合いを楽しんだ『雷火』『ロト紋』
1987(昭和62)年から、「コミックバーガー」(スコラ)で『雷火』(原作:寺島 優)の連載が始まります。子どもの頃から『サスケ』(白土三平)が好きだった僕。その影響なのか、ずっと“忍者もの”を描いてみたいと思っていたんです。それもフツーの忍者ものではなくて、“猫”を使ってみたいと思った。当時、『赤々丸』(内田美奈子)や『綿の国星』(大島弓子)のように、猫を主役にしながら重厚なストーリーを描く作品が登場していました。
そこで打ち合わせの時に「忍者ものを描きたい」と言ったら、原作者の寺島さんが提案してくれたのは、まさかの“邪馬台国を舞台にした忍者漫画”。猫は出てきませんが、誰もやったことのない設定だったので非常に魅力を感じました。有史以前のお話ということもあって、史実に縛られずに自由に描くことができました。おかげで、かなりダイナミックなストーリーになったと思います。
キャラクターがまとう装束については、想像力を働かせて作りました。当時入手できるもので、何が作れるかということですね。寺島さんも同じお考えでしたが、現代の我々が思うより多くの海外文化が、当時の日本列島に入ってきていたように思います。漫画に登場する和人の文化も、それなりに発展しているという設定にしたので、ドラマを大きく飛躍させることができました。
『雷火』©藤原カムイ・寺島優
寺島さんの原作に、僕が作画で応えるかたちでキャッチボールが続きました。魏国のイキナメというキャラクターは、主人公・雷火のライバル。寺島さんは最初原作で早々に死んでしまう展開を考えていましたが、「イキナメは、雷火にとっての“力石 徹”です!」と言って、阻止しました(笑)。その後は最後まで大切に書いてくれました。『雷火』は、原作者と作画家の良い“化学反応”を起こせた作品だと思います。
『雷火』の連載を抱えながら、1991年には『ロト紋』こと『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』(原作:川又千秋)がスタート。「月刊少年ガンガン」(スクウェア・エニックス)での連載でした。初期の原作・設定はSF作家の川又千秋さん。途中から脚本家の方が入っていますが、小柳順治さんとは充実したやり取りをさせていただきました。編集者と原作者、漫画家――三者間で意見を戦わせながら、良い作品作りができたと思います。
この作品の続編が、「ヤングガンガン」(スクウェア・エニックス)で連載した『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章~紋章を継ぐ者達へ』(脚本:映島 巡、梅村 崇、監修:堀井雄二)です。2004年から15年間連載しました。「ロト紋」シリーズとは、本当に長い付き合いになりましたね。“ファンタジーもの”で定評を得たことで、『精霊の守り人』(上橋菜穂子)のコミカライズのお声が掛かったと思います。押井 守監督原作の『犬狼伝説』も思い出深い作品です。押井監督の原作はとにかく情報量が多い(笑)。毎回どう構成するかを考えるのが大変でしたが、映像の魅力を髄まで知る押井監督の作品です。その世界観を漫画にするために、コマ割りや演出に映像的手法を取り入れて工夫してみました。
まだまだやっていないコトが沢山ある
様々なタイプの漫画家がいると思いますが、僕の場合は“原作者”や“編集者”とのインタラクティブ(双方向)のやり取りが楽しい。
『福神町綺譚』は僕のオリジナルの作品ですが、インターネットを使ったインタラクティブ・コミックとして、読者に様々なアイディアを投稿してもらいました。1914年の大正博覧会の会場を中心に、異空間に飛ばされた「福神町」。読者にその町民となってもらって、一緒にストーリーを作り上げていくというスタイルでした。読者のアイディアを、どう生かすかという苦労もありましたが、やりがいはありましたね。インターネットでどんどん情報がアップされるので、読者のアイディアは積極的に採用しています。たとえ入稿前日であっても、面白い投稿があれば描き直すのでタイムラグがほとんどありませんでした。その後も読者が集まって演劇にしたり、サントラを作ったり、僕自身も積極的に参加したりと、とても思い出深い作品となりました。
きっかけは、いつも些細です。“好き”になったら、そこから深く広く世界を探るのが僕のやり方です。最近では「カムイバース」というメタバース(インターネット上の仮想空間)を作っています。そこは、ユーザーが “好き”という気持ちをカタチにできる場所。実際にそこに参加した人が楽曲を作ってCDを出したり、革細工などの作品を作ったり、夢を実現しているんです。
僕自身も音楽のレーベルを立ち上げました。小学校の頃から音楽は好きでしたが、楽器が弾けないのでイメージを“音”にすることができなかった。でも、今なら夢をカタチにできます。ミュージシャンのプロデュースやジャケット写真の撮影、CDジャケットのデザインといったかたちで参加しているんです。
漫画家としても、やりたいことが沢山あります。商業誌での長期連載を終えて、いったんお休みしましたが、活動再開後は僕の初期のアナログ作品をデジタル化しています。手描きの原稿をスキャンしてレタッチした作品は、「藤原カムイ 初期アナログ短編拾遺集」というシリーズにまとめて電子配信されています。印刷を前提としたコミックの場合は、コストを抑えるためモノクロで描かなければなりませんが、電子コミックだったら色の制限がありません。「どうせなら」と思い切って、着彩加工もしています。オリジナルをご存じの方も、そうでない方もぜひ読んでみて欲しいと思います。
漫画家の中には、若い頃に描いた作品を「読み返したくない」という人もいるようです。だけど自分の場合は、過去を振り返らないでいると、自分の絵柄を忘れてしまう。漫画はデフォルメの世界です。しかし絵の整合性にこだわるうちに、変な方向に行ってしまうこともあります。それは、読者にとっても宜しくないですよね。
『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』の完全版刊行が決まった際には、全編修正を加えました。その作業の過程で、自分の昔の絵柄をトレースすることで気が付いたんです。「あ、ずいぶん絵が変わっているな」と――。「この顔は、今では描けないな」と感心させられたこともある。修復には半年ぐらいかかりましたが、全体の統一感を出せたと思います。連載時はどうしても時間の制限があるので、知識がないまま描いたところもありました。それを修正したい気持ちが強かったので、膨大な作業も苦にはならなかったし「楽しかった」の一言に尽きます。
『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 完全版』©Kamui Fujiwara ©Junji Koyanagi ©SQUARE ENIX
漫画も、それ以外のことも「今が一番楽しい」と言っていいかもしれない。僕は「新しいコトを拒まず、古いモノに背を向けず」をモットーに、自分が好きな分野に結びつくものは何でも取り入れてきました。それは僕の原点である少年時代から変わりません。そして嬉しいことに、まだまだやっていないコトが沢山あります。自分の中で温めている企画もあるので、楽しみにしていてください。
取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略