【推しマンガ】あの頃、僕は“まんが虫”だった! 細野不二彦が描く“1978年”という時代。
1979(昭和54)年、「マンガ少年」(朝日ソノラマ)に掲載した『クラッシャージョウ』(原作:高千穂 遙)でデビューした細野不二彦。以後、『さすがの猿飛』『Gu-Guガンモ』『ギャラリーフェイク』など、多くのヒット作を手掛けてきました。
『1978年のまんが虫』は、細野不二彦による自伝的マンガ作品。彼のマンガ家としてのルーツを、プロデビューの1年前である“1978年”に辿っています。
2024年は、細野不二彦のデビューから45年目の節目に当たります。長きにわたり、マンガ界の第一線で活躍を続けるレジェンドのひとり細野不二彦。その原点は、彼が“まんが虫”であった青年時代にありました。
アニメとSFのブーム到来
戦後の復興に成功し、未曾有の経済成長を成し遂げた日本。1970年代には、石油危機などの影響で足踏みを余儀なくされましたが、大衆消費社会への進展がとどまることはありませんでした。
1970年代後半――。若者たちは、後の世に「バブル」と呼ばれる時代が近づいているとも知らず、好景気の下で新たな娯楽の開拓に勤しんでいたのです。それまでマイナーとされていたSFやアニメなどサブカルチャーの台頭も、その一例と言えるでしょう。
1977(昭和52)年には、劇場版アニメ『宇宙戦艦ヤマト』が公開。若者たちが映画館に長蛇の列を作ったことで、マスコミは「アニメブーム到来」と大きく報道しました。アニメ界に訪れたSF人気の波。そのうねりは大きなものとなり、マンガ界にも押し寄せることになります。
『1978年のまんが虫』©細野不二彦 / 小学館 P003より
細納不二雄(サイノフジオ)は19歳。東京下町にある実家から、神奈川県Y市に建つ私立・丘の上大学に通っています。
ここはオシャレでスマートな学生が通うことで有名な名門校。附属高校上がりの細納はいわゆる“丘の上ボーイ”でしたが、華やかな校風になじむことができずにいました。
細納はアイドル歌手のアグネス・チャンが大好き。しかし彼女が1976(昭和51)年に芸能界を引退したため(その後復帰)、彼は部屋に貼られたポスターを見ながら塞ぎ込みます。青年は心のどこかで求めていました。空虚な思いを満たしてくれる“何か”を――。
マンガを描く“黄金の時間”
二年先輩の福来(ふくらい)正彦は、細納不二雄の数少ない友人の一人。附属の中等部から上がってきた生粋の“丘の上ボーイ”です。
福来は社交的な性格で、文芸クラブやSF研究会などアチコチに出没しています。そんな彼が、キャンパス内で細納を発見。「金曜日“池袋”行くよねェ」と誘います。
当時、池袋にある喫茶店「上高地」では、SFイラストの同人の会合が開かれていました。映画好きやSF好き、アニメ好きが集まる、今でいう“オフ会”のようなイベント。コーヒー1杯を頼めば、誰もが好きなことを駄弁(だべ)ることができるという空間でした。さらに持ち寄ったイラストやマンガを、同人同士で見せ合ったりしていたのです。
『1978年のまんが虫』©細野不二彦 / 小学館 P016_017より
細納不二雄は、両親と8歳下の弟・智之と4人暮らし。父親はサラリーマンですが、アルコール依存症と糖尿病を患っています。智之は、小学校の特殊学級(現・特別支援学級)に通う必要がありましたが、父親はその教育を母親に丸投げ――。
そんな父親を見るたび、細納は大きな虚しさを覚えていました。彼は自身の“スカスカ”な心を満たそうと、SF同人の会合に向けてマンガを描きます。
マンガを読み、描く時間だけが退屈な日常を忘れ去ることができる“黄金の時間”。細納は、一心不乱に原稿用紙に向かいます。やがて、SF同人の会合の日がやって来ました。
伝説のクリエイター集団との出会い
細納不二雄にとってSF同人の会合は、大学では味わえない楽しい時間。彼が新作のイラストを披露すると、「やっぱり美少女モノやねぇ」「細納のキャラはいい!」と仲間がほめてくれました。
しかし次の瞬間、「おおい その絵、」「こっちにも回してくれーっ!」という声が、店の奥から響きます。奥の席に座る4人はプロフェッショナル。古株の会員であり、この会合の主催者でもありました。
『1978年のまんが虫』©細野不二彦 / 小学館 P032_033より
日本SF界を代表するクリエイター集団「スタジオぬえ」。その設立メンバーである高千穂 遙、松崎健一、宮武一貴、加藤直之ら4人が、喫茶店「上高地」の会合を主催していたのです。
当時スタジオぬえは、「SFマガジン」(早川書房)の表紙を手掛けていました。さらにSF小説の書き下ろしや、テレビアニメのコンセプト構成・メカデザインまで担当する気鋭のクリエイター集団。中でも松崎健一は、人気テレビアニメ作品の脚本やSF考証で知られていました。
プロの仕事人として活躍する松崎に対し、細納不二雄はまだ学生気分が抜けないアマチュアです。ある日の会合で、松崎にマンガ原稿を見てもらった細納青年。しかし、「お話はまだまだ」「主人公(キャラクター)にもっと魅力がなくっちゃ」と酷評されてします。さらに「あわよくば マンガ家になりたいと思ってるだろ?」と、心の内を見透かされてしまったのです。
細野不二彦のマンガ道
「マンガ家でも小説家でも アタマをやわらかく!」「アイデア、発想を自由にせんといかんのよ」「売れてる小説を読む。ひたすら読む」「古くても名作といわれる映画をたくさん観るとか、もっともっと勉強せんとアカンね!」。劇中では、松崎健一の言葉に衝撃を受けた青年の姿が描かれています。
さて、本作の著者である細野不二彦は、スタジオぬえの高千穂 遙によるスペースオペラ『クラッシャージョウ』のコミカライズによりデビュー。その後、忍者物から学園コメディ、本格美術ロマンなど、幅広いジャンルの作品を手掛けて読者を驚かせています。細野不二彦が持つ“引き出しの多さ”。そのルーツは、SFのプロ集団の下で薫陶を受けた青年時代にありました。
本作には、著者の青年時代をモデルとした細納不二雄のほか、“1978年”を揺籃として巣立っていった著名クリエイターが多く登場します。日本のアニメやマンガの歴史を物語る証言として、また等身大の若者による感動の青春物語としてオススメしたい一作です。
執筆:メモリーバンク / 柿原麻美 文中一部敬称略