【推しマンガ】イギリス人が目撃した明治の日本! 驚きと懐かしさに満ちた冒険物語!!
明治初頭の日本に、東京から蝦夷地(えぞち)まで旅をしたイギリス人の女性がいました。その名はイザベラ・バード。世界を旅した探検家です。
彼女の目的はただ一つ。滅びゆく日本古来の生活を、記録に残すことでした。通訳の伊藤鶴吉を一人連れ、日本人ですら踏み入ったことのない道なき道への冒険が始まります。
「ハルタ」(KADOKAWA)の実力派新人・佐々大河(さっさたいが)による注目の一作。イザベラ・バードとともに、驚異のワンダーランド・明治の日本へ、冒険の旅に出掛けましょう!
探検家イザベラ・バードとは!?
イザベラ・バードは、19世紀に活躍したイギリス人の探検家、旅行家です。当時はまだ女性の一人旅は珍しい時代。バードは、自らの体験をもとに『ハワイ諸島探検記』『ロッキー山脈踏破行』などの旅行記を手掛けてベストセラー作家となりました。
幼少期に病弱だったバードは、転地療養をきっかけに、旅の能力を身につけたと言われています。22歳のアメリカ・カナダ旅行から、69歳のモロッコの旅まで――約半世紀にわたって世界中を旅しました。
バードは、日本にもやって来ています。当時の欧米人が未踏としていた、内陸ルートによる東京―函館間の旅を敢行したのです。彼女は日本での見聞を、妹のヘンリエッタに宛てて書き送りました。その内容は現在も、『日本奥地紀行』(訳:高梨健吉)として読むことができます。
『ふしぎの国のバード』©Taiga Sassa1巻P006_007より
この『日本奥地紀行』を出典として、イザベラ・バードとその通訳・伊藤鶴吉の旅をマンガ化したのが『ふしぎの国のバード』です。
著者の佐々大河は、大学時代にイギリス近代史を学んだ経歴の持ち主。歴史資料とバードが残した原典にもとづきながら、オリジナルの作品を生み出しています。そこに描かれているのは、豊かな感性と鋭い観察力を持った女性、イザベラ・バード。
妹のヘンリエッタに見送られ、彼女が目指したのは開国したばかりの日本。1878(明治11)年5月20日、イザベラ・バードは開港地・横浜に降り立ち、この愛すべき旅行記を綴り始めます。
日本という“ふしぎの国”
「愛しの妹ヘンリエッタ 姉さんは今“日本”というふしぎの国を旅しています」。横浜に降り立ったイザベラ・バードは、妹に向けた感想の中で、日本を“ふしぎの国”と評しました。
江戸幕府は、260年余の長きにわたって“鎖国”を行いました。未知の国・日本の風景を見た、当時の訪日外国人が大きな衝撃を覚えたことは想像に難くありません。
佐々大河が描くバードは、見るものすべてに目をキラキラと輝かします。主人公を瑞々しい感性の持ち主をして描くことで、読者の私たちの感動も一層大きなものになるのです。日本というワンダーランドに迷い込んだバードを、どんな冒険が待ち受けているのでしょうか。
『ふしぎの国のバード』©Taiga Sassa1巻P008_009より
佐々大河は、作中に登場する日本人の会話を、筆文字のような“崩し文字”を用いて表現しています。イザベラ・バードの旅では、言葉が分からないもどかしさもあったことでしょう。あえて読者が読めないセリフにすることで、彼女の外国人としての視点を伝えています。
待望の日本上陸に、興奮冷めやらぬ様子のバード。しかし、すぐに“通訳”の必要性に気づいています。英語を解し、彼女の日本旅行を助けてくれる人間です。
彼女が頼ったのは、横浜山手に居を構えていたジェームス・ヘボン。医療宣教師として幕末に来日した人物で、ヘボン式ローマ字の創始者として知られています。彼のもとを訪れたイザベラ・バードは、「この旅が成功するか否か それは優秀な通訳を雇えるか否か」だとして、通訳探しの協力を頼むのです。
イザベラ・バードの視点に共感!
イザベラ・バードが探しているのは、この国の文化や、奥地の生活にまで精通している凄腕の通訳ガイド。ヘボンは、彼女のために通訳候補の日本人を集めてくれましたが、同時に「この国の英語力に関しては あまり期待しないほうがいい」と助言します。
バードは、すぐにその言葉の意味を理解しました。通訳候補が話すのは、彼女が解する“英語”ではなかったのです。ピジン語とは、二つの言葉が混合することで生まれる通用語。当時、横浜や長崎、神戸といった開港場では、商取引などの目的のため、独自の地域言語が生まれていたのです。
「ミー チョバチョバ パラパラ!」。佐々大河は、通訳志願者の自己アピールをユーモラスに描きます。ちなみに、「チョバチョバ」とは食べ物、「パラパラ」は混ぜるとか、作るという意味があるそうです。
『ふしぎの国のバード』©Taiga Sassa1巻P016_017より
本作に描かれているのは、現代の日本人が忘れてしまった“明治の日本人”。私たち読者も、この作品世界では異邦人であるに過ぎません。イザベラ・バードが受ける衝撃に、大いに共感するゆえんです。
通訳志願者の英語力は、いずれもバードを満足させるものではありませんでした。さらに彼女の目的地が「蝦夷ヶ島(現・北海道)」であり、その道筋は新潟から西海岸ルートを抜ける危険な旅だと判明。そのアテンドをできる者は皆無かと思われました。
そこに現われたのが、伊藤鶴吉という青年です。流暢な英語でバードを感心させますが、紹介状は持っていないと言います。ヘボンは、この時代の日本で「身元不明者を雇うのは危険」と忠告しますが、バードは伊藤を「イト」と呼んで、彼に横浜のガイドを頼みます。こうして、採用試験代わりの横浜散策が始まりました。
失われた日本文化に会いにいこう
伊藤(イト)の案内で、横浜日本人街の骨董品通りを訪れたイザベラ・バード。そこで売られている陶器が、外国人向けに大量生産された粗悪品と見抜いて、「人々の生活が見えるようなところ」へ連れていくよう命じます。
バードの望みを聞いた伊藤が案内したのは、横浜・港崎(みよざき)の衣紋坂(えもんざか)市場。見たことのない魚介類、あふれる人々の活気がバードを魅了します。
1878(明治11)年6月6日、バードは人力車に乗って横浜を発ちました。その傍らには、“身元不明の通訳”が一人付き添っていたといいます。こうして、ふしぎの国を旅する物語が幕を開けたのです。この先に待っているのは、私たち読者も知らない“失われた日本”の姿。命がけの危険な旅になるかもしれませんが、あなたも一緒について来ませんか――。
執筆:メモリーバンク / 柿原麻美 *文中一部敬称略