漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.24 斬新な漫画誌を目指したが…
※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。
▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。
ACT.24 斬新な漫画誌を目指したが…
前回に引き続き、「週刊漫画サンデー」(以後マンサン)の兄弟誌「サンデーまんが」について。
「サンデーまんが」は、ナンセンス4コマ専門誌としてスタートしたが、編集部内ではもっと冒険的な雑誌にしたいとの思いがあった。そして創刊して半年も経たないうちに、ストーリー漫画が何本か入り始めた。もっとも、4コマ誌を謳いながらも創刊時から新田たつお氏の『家庭にほえろ』が入っていたので、完全な4コマ誌とは言えなかったかもしれない。とにかく「斬新な漫画誌をつくりたい」という気持ちが強かった。
なんきんさんの超シュールコミック『タコのよっちゃん』が載ったのもいしかわじゅん氏の表紙になってからだ。同じくちょっとシュールっぽくなりつつあった、いがらしみきお氏の特別書き下ろし『カンタンなんだよ。』という漫画もこの時期に掲載されている。
『家庭にほえろ』より ©新田たつお
しかし極め付きは、アメリカンコミックの連載であった。どこの雑誌でもまだやっていない未知の領域に心は躍った。アメリカのDCcomic提供の『THE NEW TITANS』―ザ・ニュータイタンズ―という作品だった。アメリカンコミックの王道であるスーパーヒーローものなのだが、果たして「サンデーまんが」の読者に受け入れられるのか? そんな不安もあったが、好奇心の方がまさっていた。しかし、困ったことが起こった。新連載につき巻頭から始める、というのがこれまでの常道であったが、ページの開きが日本と逆なのだ。タテに文字を読ませる日本の漫画は右開き、欧文横組みの外国の漫画は左開きに創られている。ならばアメリカンコミックを雑誌の後ろから読ませればいいというアイデアを考え付いた人物がいた。それが誰であったかは憶えていないが、私でないことは確かだ。一冊の雑誌のなかで、従来の右開きと左開きで始まる漫画が同居することとなったのだ。斬新といえば斬新、大胆といえば大胆な発想だった。
アメリカンコミックで一番苦労したのは、漫画の中のフキダシ。原文は横組み。それを日本語に置き換えタテに読ませようとするのだが、フキダシが横長のため無理とすぐに悟った(いまならパソコンで画面処理も可能だが)。結局、ヨコ書きで左から右に翻訳したセリフを読ませることにした。メールに慣れたいまの世代なら、ヨコ文字のセリフに何の抵抗もないだろうが、まだパソコンもスマホもない時代の話である。案の定、こちらの意気込みに反して、読者の反響は今ひとつだった。雑誌の売れ行きにも暗雲がたちこめはじめた。
表紙がいしかわじゅん氏から、わたせせいぞう氏に代わったのは1984年の7月号からだった。
中身的には大きな変化はなかったが、この年の10月号から内田春菊さんの『シーラカンス アナライズ』が始まった。
また高橋春男氏にもずいぶん活躍していただいた。一時、草野球での遠投が原因で、右の利き腕を骨折してしまい筆が持てずしばらく休載していたが、このころ見事復帰し、マンサン、「サンデーまんが」その他雑誌で、復帰以前より忙しい日々を送っていた。
「サンデーまんが」での連載は、高橋氏のキャラクターが存分に発揮された『あいどるばんく』という作品だった。これは、似顔絵で有名人をちょっとイジリ、さらに文章で突き落す?というちょっと危ない連載だった。高橋氏の似顔絵とウイットに富んだ文章は「サンデーまんが」の名物でもあった。同じころに、マンサンでは南伸坊氏の『ハリガミ考現学』が始まっていた。巻末2色ページの名物コーナーで、絵のユニークさと軽妙洒脱な味わいのある文章の組み合わせが大好評だった。その後単行本にもなり人気を博した。そういう意味ではこのふたつの連載は、今でも強く印象に残っている。
1985年になると「サンまん食欲講座」という一風変わった企画が始まった。今日流行のグルメ漫画を想像すると裏切られる。たとえばこの年の2月号に載った泉晴記氏の『やって来た二人』は、人間が格付けしたソバ屋を宇宙人が訪れ次々と食い逃げするというグルメ?な話。6月号では、やくみつる&ペパーミントプロ作品の『ドレッシングはサザンアイランドで』。ちなみにこの漫画のキャッチフレーズは“食べ物なるものをシサイに追求してゆくとまんがになる。今月のメニューは4コマなのだ”。この意味深なキャッチフレーズに象徴されるように、タイトル、登場する漫画家、どれをとっても一筋縄ではいかない超ユニークな内容だった。このシュールさは編集仲間ではバカ受けだったのだが、雑誌の低空飛行は止まらなかった。
そして、1986年の4月号で休刊することとなった。このごろの表紙は、漫画のキャラから女性タレントの写真に代わっていた。ちなみに最終号の表紙のタレントはデビューまもない歌手の森川由香里。布施明と結婚した歌手でタレントといえばわかるかもしれない。
わずか3年という短い寿命の雑誌であったが、得るものはたくさんあった。後にここに登場したたくさんの漫画家がマンサン飛躍の礎を築いてくれるのだが、この時は、まだ目先のことしか見えていなかった。(つづく)