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漫画サンデー元編集長が舞台裏を語る! 上田康晴「マンガ編集者 七転八倒記」 ACT.18 週刊漫画サンデー出張校正室②

※本ページは、2013年11月~2015年5月にeBookjapanで連載されたコラムを一部修正、再掲載したものです。

▼プロフィール
上田康晴(うえだ やすはる)
1949年生まれ。1977年、実業之日本社に入社。ガイドブック編集部を経て、1978年に週刊漫画サンデー編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に週刊漫画サンデー編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。

ACT.18 週刊漫画サンデー出張校正室②

 「週刊漫画サンデー」編集部所属以前の「週刊小説」編集部時代、すでに大日本印刷所での出張校正は経験していた。遅筆で有名な作家・野坂昭如氏は、締切に間に合わず、大日本印刷所の中にある校正室に缶詰になり原稿を書いていたことがあった。『柳生武芸帳』などの大ヒットで有名な作家・五味康祐氏に至っては、校了班がいまだ入らない原稿にイライラしているところ、突然明るい声で「ヤッホー」と校正室に入ってきたことがあった。この呑気さには、みんな笑うしかなかった。綱渡りの入稿作業であった。しかし、「週刊漫画サンデー」(以後マンサン)ほど長時間にわたって、印刷所に拘束されることはなかった。
 マンサンへ異動しての1年間は、原稿入稿もスムースだったが、2年目を過ぎ、連載陣が新たになると、出張校正室は一変した。締め切り間際の入稿作業に、徹夜の日も多くなった。すると、いつしか冷蔵庫が入り、どこからともなく中古のテレビが運び込まれてきた。誰が命令するわけでもないのに、いつも冷蔵庫の中にはビールや日本酒が入っていた。ひたすら漫画家の原稿が届くのを待つ校了班にとっては、ささやかな楽しみであったが。
 そのうち、冷蔵庫の存在を聞きつけた他社の校了班が借りに来た。そして冷蔵庫の中は、種々雑多な酒とつまみが所狭しに置かれることとあいなった。まるで学生下宿である。将棋、トランプなど時間をつぶすには事欠かない遊び道具も持ち込まれてきた。「さあー、何時になっても、こちらの体制は万全だ」なんて言いながら、トランプに興じていた。原稿が1分でも早く上がるように漫画家をせっついている担当者には見せられない光景だったと思う。
 かつて光文社の「週刊宝石」の編集だったある人物は、私と同じように、校了作業に携わっていた。ただ私と違うところは、彼は、空いている時間を有効に使おうと、ひたすら古今東西の古典を読んでいたという。その地道な読書の蓄積が、後に光文社の新約古典シリーズ(ドフトエスキーの『カラマーゾフの兄弟』など)の大ヒットを生むきっかけになったと知った時には、恥ずかしく、悔いた。しかし、このような編集者の存在を知らなかった当時の私は、出張校正室の生活をエンジョイ?していた。
 「編集長が交代するらしい」と言う話が耳に入ってきたのは、マンサンに異動して1年、出張校正室にまだ冷蔵庫もない、おだやかな時間が流れていた。期待の若き編集長を盛り立て、これからという時だった。会社はマンサンの若返りを図るべく、大胆な人事をおこなったはずなのだが、約1年で撤回してしまうのか、と言う不満が渦巻いた。ただ、雑誌の売れ行きは芳しくなかった。そこを突かれると返す言葉は、誰にもなかった。そして編集長交代は、粛々とおこなわれた。
 新たに就任したマンサン5代目編集長は、3代目編集長のY氏だった。これまた意表を突く人事だった。Y編集長の口癖は、「俺のライバルはマンサン3代目編集長だ」。ちょっと気障な感じがしたが、一杯お酒が入ると妙に親しみを感じてしまい胸襟を開いていた。
 新編集長のもと、私は、はじめて長期連載の劇画を担当することになった。それは玄太郎(劇画)+大久保昌一良(原作)による『呪いの万華鏡』(1979年~1980年)。タイトルは、Y編集長が考えた。タイトルやキャッチコピーづくりの名手だった。「つまらないものにしたらお前の責任だ」とまでは言われなかったが、プレッシャーを感じた。打ち合わせは原作者を交え、毎週長時間かけておこなっていたと思う。原作者の大久保昌一良氏は、『水戸黄門』などTVドラマやラジオの脚本、演出を手掛けていて、忙しそうではあったが、この連載の打ち合わせには、万難を排し参加していた。時折、TVやラジオ制作の裏話に花が咲くことはあったが、漫画原作に関しては、一生懸命に取り組んでいた。初めは勝手がわからず聞き役に徹していた私だが、そのうち慣れてくると、ストーリーに対し自分の意見やアイデアを積極的に言うようになっていた。私の漫画編集者としての基本を身に付けたのは、この打ち合わせからかもしれない。

 永井豪氏率いるダイナミックプロダクションに出入りするようになるのは、『呪いの万華鏡』の連載が終わってからのことだった。後にダイナミックプロダクションに所属していた石川賢氏とも仕事をすることになるのだが、この当時は、同じく『ダイナミック―――』に所属していた村祭まこと氏の連載を手掛けることになった。読み切り作品などを経て、本格的な連載が始まったのは『毎日がゴルフデー』(1982年頃)だった。バブル期で、駅のホームなどでは傘でゴルフのスイングのマネをしている姿を時折見かけた時代だ。その後、村祭氏とマンサンは、長きに亘って付き合うことになる。

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