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【漫画家のまんなか。vol.19 魚乃目三太】「描きたいテーマはたくさんある」 それでも、魚乃目三太が戦争の取材を急ぐ理由

トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。

“食べること”は人間の生活の土台であり、身体はもちろん心も豊かにしてくれます。しかし今からおよそ80年前、食事を取ることすらままならぬ時代がありました――。

第二次世界大戦時の“食”の記憶を描き、注目を集める『戦争めし』。「チャンピオンクロス」(秋田書店)での連載スタートから、今夏で10年目を迎えました。著者の魚乃目三太先生に、日本人の食にまつわる記憶を描き続ける理由、そしてこれからの展望をお聞きしました。

▼魚乃目三太
1975年、奈良県生まれ。1998年に大学を卒業後、建設会社に勤務。その後、転職して漫画家になる。2007年、『島之内ファミリー』『コミック ホームレス中学生』(原作/田村 裕〈麒麟〉)でデビュー。2011年、雑誌「思い出食堂」の初期より、家族愛や食べ物の記憶をテーマにした食漫画を連載。同誌の表紙を、庶民派グルメのイラストで飾り人気を博す。
2015年より、「ヤングチャンピオン烈」などで『戦争めし』を連載。取材を基に、戦争にまつわる「食」をテーマに描いて大きな反響を呼ぶ。
代表作の『宮沢賢治の食卓』『戦争めし』『ちらん―特攻兵の幸福食堂―』は、近年実写ドラマ化されて話題となっている。

戦争めし 著者:魚乃目三太
宮沢賢治の食卓 著者:魚乃目三太

アラレちゃんの模写に夢中になった小学生時代

僕の小学生時代というと、「週刊少年ジャンプ」(集英社)の黄金時代でした。僕も鳥山 明先生の『Dr.スランプ』に夢中になりましたが、きっかけはテレビアニメの『Dr.スランプ アラレちゃん』でした。鳥山先生のポップでオシャレな絵柄が、奈良の田舎育ちだった僕の胸にドキンと来たのです。

アラレちゃんの模写を始めたのが、僕の漫画事始めです。そのうちに、鳥山先生が『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』(さくまあきらと共著)という漫画のレクチャー作品を、「フレッシュジャンプ」(集英社)に連載するようになります。こうなったら、漫画を描くしかありません。

キン肉マン』(ゆでたまご)、『北斗の拳』(原作:武論尊、作画:原 哲夫)、『シティハンター』(北条 司)など“ジャンプ作品”のテレビアニメに夢中になって、原作漫画をむさぼるように読みました。でも少年誌に夢中になったのも、小学校の中学年か高学年までだったと思います。それからすぐに、青年誌を読み始めていますからね。

アラレちゃんの模写で、漫画を描く楽しさを知った僕。当時の漫画家志望者に、実際の漫画家たちがどうやって描いているのかを見せてくれたのが、NHKで放送した銀河テレビ小説『まんが道』でした。『怪物くん』や『魔太郎がくる!!』をお描きになった藤子不二雄(A)先生が、「週刊少年キング」(少年画報社)に連載した『まんが道』が原作です。このドラマで、つけペンの使い方をはじめ、出版社への投稿、持ち込みが必要なことなどを教えられました。

小学6年生の頃には、ノート3冊分ものギャグ漫画を描いて、クラスの仲間から喜んでもらっています。そんな時に出会ったのが、いしいひさいち先生の『がんばれ!! タブチくん!!』の劇場版アニメでした。「単純な線で描かれたキャラクターなのに、このオシャレさは何なのだろう」と、すっかりはまってしまいました。それからです。青年向けコミック誌に目を通すようになったのは――。

Dr.スランプ 著者:鳥山明

浦沢直樹の模写で腕を磨いた投稿時代

青年誌を読むようになってまず衝撃を受けたのは、浦沢直樹先生の『パイナップルARMY』(原作:工藤かずや)でした。『YAWARA!』にも夢中になっています。中学生の頃は、浦沢先生のキャラクターの模写を繰り返していました。あと、井上雄彦先生の『SLAM DUNK』にもはまっています。

浦沢先生の作品は、極めてシンプルな描線ですが、ストーリー運びが重厚で読者を魅了します。セリフの吹き出しの位置まで全部理想的に構成されていて、大きな影響を受けました。細かいコマ割りで映像的な見せ方をするところ、セリフの量やタイミングなど、お上手な先生なんです。僕の作品には今も、浦沢作品の影響が反映されているかもしれません。

16歳頃のことです。「週刊少年ジャンプ」の『GAGキング』に4コマ漫画を投稿、最終選考まで残りました。新人募集のための企画でしたが、ギャグ漫画で“笑わせた者勝ち”という投稿コーナー。とにかく「週刊少年ジャンプ」に自分の名前が載っているんです。「これで漫画家になれる」という自信がつきました。ところが、編集部で僕の担当になった方から電話をいただいた時に、大学受験を理由に断ってしまったんです。

今から考えると、メチャクチャもったいないことをしたと思います。しかし、当時の僕は高校生。将来への不安もあったと思います。漫画の投稿を親に隠していたので、後ろめたい気持ちもあったのでしょうか。その反面、漫画家にはいつだってなれる――そんな不遜な思いもあったのかもしれません。おかげで、だいぶ遠回りしてしまいました。その分、さまざまな社会経験をさせてもらいましたが、「もうちょっと早く、将来のことを考えられたら」という思いはありますね。

大学4年目で描き上げた2作で人生初の持ち込みをする

大学は土木工学科に進みました。今一つ、将来のことが分かっていなかったと思います。そんな中で、「土木といえば、ダムとか橋梁を建設するんだろうなあ」と、イメージを描きやすかったのだと思います。

たとえば法学部を卒業した全員が、法曹界に進めるわけではありません。それはどの専攻も同じで、卒業後の将来はおしなべてサラリーマンになるケースがほとんどです。受験戦争を勝ち抜いても、多くの大学生の将来は曖昧なものでしかない。僕も「週刊少年ジャンプ」のお誘いを断ってしまいましたが、漠然としていたのだと思います。そこで大学進学に当たっては、「少しでも、将来が見えるものを専攻したい」と思ったのかもしれません。

大学に通っていた頃は、漫画を描いていません。4年生になって、「もう一度漫画を描いてみよう」と思ったのは、就職活動で内定をもらってからです。卒業に必要な単位はすべて取っていて、時間ができました。そこでもう1回、自分の可能性を試したくなったのです。死ぬまでに一度でいい。『まんが道』で主人公たちがやっていた「持ち込み」をやってみようと思ったのです。

持ち込みをして、僕は漫画家を目指していたことを再確認したかったと言ってよいかもしれません。かろうじて漫画家になれたら、それもまた人生――だと思いました。2か月ほどかけて2本の漫画を描き上げて持ち込みましたが、それが人生初の持ち込みです。

会社の面接で上京した時に、集英社と小学館に原稿を持ち込もうとアポを取っています。「ヤングジャンプ」編集部には午前中、「ヤングサンデー」には午後1時に時間を取ってもらいましたが、漫画の編集部員が出社するのは昼過ぎ、午後1時過ぎとのことでした。コミック誌の編集者は、締め切り優先の多忙な生活。勤務も夜型となってしまいがちで、出社が遅くなる人も少なくないのです。

午前中のアポを取った「ヤングジャンプ」編集部に行っても、お目当ての方がいらっしゃらない。落胆している僕を見かねたのか、奥の方で写真を選んでいたグラビア班の方が見てくれました。ところが「面白くない」の一言だけ――。初めての持ち込みで、うまく行くとは思っていませんでしたが、「もうダメだ。太刀打ちできない」という気持ちになりました。

午後1時にアポを取っていた「ヤングサンデー」ですが、とても持ち込みをできるようなメンタルではありません。そこで電話をして「行けない」旨を伝え、持ち込み用に準備していた原稿を“月例賞向け”として郵便ポストに投函して家に帰りました。それが、のちに思わぬ功を奏すことになります。

自分の才能を信じた最後の持ち込みが花開く

入社式の日でした。僕の携帯電話が鳴りました。「ヤングサンデー」に送った作品が、「最終選考に残った」と、担当編集さんからの電話でした。漫画の神様がいるとしたら、「就職も頑張れ、漫画も頑張れ」と言ってくれたのだと思ったものです。「運がある」と人は言いました。まさか、入社式当日の努力賞入賞の連絡です。自分に可能性があると思って、漫画を描くようになりました。

昼は建築現場での仕事、夜は漫画を描くという、二足のワラジをはいた生活が始まりました。朝5時、6時に家を出る生活です。現場に泊まり込むこともありました。夜の10時ぐらいに家に帰り、ボロボロになりながらネームを切りました。そのネームを郵送するんですが、担当さんが返事をくれるのが午前2時、3時。そんな生活が5、6年続きました。

しかし担当編集者の配置が変わり、雑誌自体も休刊。「30歳までに芽が出なかったら、漫画家になるのを諦めよう」と決めていました。そこで「もう一度持ち込みをしよう」と、『まんが道』で知っていた少年画報社に行きました。4コマ漫画とショート漫画、ストーリー漫画を見てもらいましたが、意外にも4コマ漫画が採用されて、僕自身ビックリしました。コンビニエンス・ストア向けのポケット雑誌でしたが、担当さんが「ヤングキング」の編集も兼ねていたことから描いたのが『島之内ファミリー』です。

島之内ファミリー 著者:魚乃目三太

貧乏生活の体験を生かして“食漫画”にチャレンジ!

大きく遠回りしましたが、こうして僕の漫画家人生がスタートしました。だけど、漫画家になる苦労が終わったと思ったら、今度は貧乏生活が待っていたんです。節約のため、図書館で“うどん”の打ち方を調べて手作りしました。これが、メチャクチャ旨かった。その頃の体験が、僕が食漫画を描く上で役立っているのかもしれません。

やがて少年画報社から、コンビニエンス・ストア向けのグルメコミック誌「思い出食堂」が創刊されます。そこで「“食漫画”を描かないか」と言われて描いたのが、『祖母(おばあ)のカツ丼』です。

この作品が読者アンケートで1位になったこともあって、雑誌の表紙用イラストを依頼されました。テーマは「おでん」。どう描けば“旨そう”に見えるかと悩みました。そこで「建物を描くのだったら、土木をやっていた自分の本領を発揮できる」と気づいて、下町に並ぶ商店街を大きく描き、その中で“串刺しのおでん”を食べる二人の小学生を描きました。

グルメ漫画の雑誌なのに、食べ物ではなく“街並み”が主役のイラストが表紙を飾ったんです。異例の抜擢だったと思いますが、これ以降「思い出食堂」の表紙を長年担当させて頂いています。この雑誌には、1話読み切り形式のグルメ漫画のほか、『宮沢賢治の食卓』『なぎら健壱 バチ当たりの昼間酒』(企画・原案:なぎら健壱)などの連載作品も手掛けています。「思い出食堂」は、僕の飛躍のきっかけとなった雑誌です。

祖母のカツ丼 魚乃目三太作品集(2) 著者:魚乃目三太
なぎら健壱 バチ当たりの昼間酒 なぎら健壱 漫画:魚乃目三太

伝えることの大切さを感じた10年間の取材

この夏、『戦争めし』(秋田書店)の第10巻が出ました。ちょうど連載が始まって10年です。もともとこの作品は、持ち込みであちこちから断られた作品でした。そんな時に、秋田書店「ヤングチャンピオン」の編集さんから「何かやらないか」と、お声がけいただいた。そこで登山漫画を提案したらボツになったのですが、カバンの底にあった『戦争めし』のネームノートを思い出した。

そのノートをお見せしたことが連載のきっかけです。その時、“戦後70年”だったことも後押ししてくれたのだと思います。「まずは単行本1巻分だけ」という約束でスタートしましたが、読者の応援もあって巻数を重ねることができました。10年連載を続けることを目標にしていたので、その思いが叶って嬉しいです。

『戦争めし』については、「取材が大変ではないか」とよく聞かれます。だけど“伝えることの重責”というよりも、むしろ焦りを感じているのが現状です。戦争を体験していた人たちが、どんどん亡くなっていく。戦争遺跡も風化して消えていっています。

『戦争めし』第10巻には、「『さかくら』の海軍羊羹(ようかん)」というエピソードを収録しています。関係者に取材を申し込んだところ快諾されたのですが、資料がほとんどない状態でした。新聞の切り抜きなどしかない。これが戦後80年近く経った現状なのです。

この題材を知ったきっかけは、「さかくら総本家」さんのホームページに掲載されていた「缶詰の羊羹」を紹介する新聞記事。そこに掲載された写真に興味を持ったんです。現代人に馴染みのある缶詰は円柱状ですが、そこに写っていたのは薄い板状の缶詰でした。

さかくら総本家さんは、明治24(1891)年から続く老舗の和菓子店。神奈川県横須賀の地で開業したことから、海軍御用達の店として発展しています。横須賀には鎮守府が置かれ、呉(くれ)、佐世保、舞鶴と並ぶ海軍の一大拠点として栄えていました。さかくらの羊羹は海軍の兵士に人気で、それに目を付けた上層部から「羊羹を軍艦に積めないか」という相談があったというのです。

そこで開発されたのが、缶詰の羊羹です。この缶詰が製造から50年経った1981(昭和56)年に開缶されて話題を呼んだというのが、くだんの新聞記事の内容でした。戦火をくぐり抜け、50年も大切に守られてきた缶詰――。そこに秘められた物語を、ぜひ漫画にしてみたいと思いました。

食べることが、生きること。戦時下の“食事”に着目した理由

太平洋戦争も半ばになると、物資が不足し出します。しかし羊羹の材料を海軍に納めるため、北海道から小豆、沖縄から砂糖が運ばれています。この輸送はもちろん、海軍の輸送艦です。

ところが陸軍になると、ちょっと様相が変わります。僕は『ちらん―特攻兵の幸福食堂―』という作品で、鹿児島県の知覧(現・南九州市知覧町郡)にあった富屋食堂をモデルに、特攻の悲劇をテーマにしています。この富屋食堂も陸軍御用達の食堂でしたが、軍からの食糧の配給などはほとんどなかったようです。富屋食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさんは、生きて帰ることのない特別攻撃隊員のため、私財を投げ打って食事を提供したといいます。

ちらん -特攻兵の幸福食堂- 著者:魚乃目三太

しかし、比較的恵まれていた海軍の食糧事情も、連合軍に制空権・制海権を奪われたことで厳しいものとなっていきます。戦争という不条理な状況――。その中でも、人間は生きていかなければなりません。その象徴とも言うべきものが「食」だと思い、その食事に寄せた思いを描き続けてきました。

『戦争めし』のきっかけとなったのが、テレビの戦争特集で紹介された“一枚の絵”を見たことです。ビルマ(現・ミャンマー)のインパール作戦で、地獄を経験した老人が描いた絵には、空の飯盒(はんごう)を握りしめてさまよう、やせこけた兵士の姿が描かれていた。百万言の言葉より伝わるものがありました。僕はこの絵を見た時の衝撃を、インパール作戦の悲劇とともに「軍隊カーストめし」という作品に描いています(『戦争めし』第3巻収録)。

チャレンジしたいテーマはたくさんある。それでも、戦争の取材を急ぐ理由

僕は浦沢直樹先生の模写をしていたこともあって、最初はリアルなタッチの絵柄で描いていました。それが今の絵になったきっかけは、『島之内ファミリー』からかもしれません。大阪の下町・島之内が舞台の作品で、貧しくともたくましく生きるオカンと子どもたちを描いたハートフル・コメディ。もし、貧乏な家族をリアルに描いていたら、“笑えない”と思ったんです。

島之内ファミリー 著者:魚乃目三太

いしいひさいち先生のような、シンプルな描線とデフォルメを目指しました。この作品でデビューしたことが、僕の大きなターニングポイントとなったように思います。食漫画を描くにしても、リアルな人物を描いたら“主役の食事”に目が行かなくなってしまうと考えました。「簡単な線で」「もっと、もっと、口を大きく描いて……」と試行錯誤するうちに、こんな絵柄になりました(笑)。

僕の戦争漫画では、主役はあくまで“食”です。読者に伝えやすいテーマだし、戦争体験者に取材をさせていただいても、みなさんお話しされやすいように思います。食事の記憶だと、よくお話ししていただけるんですね。『戦争めし』の最初のネームノートは、リアル調で描いていました。しかし戦争の悲劇や、戦時下の食事をリアルに描いていたら、読者に受け入れられていたか分かりません。戦争では多くの人が飢えに苦しめられましたが、同時にささやかな希望でもあったと思うのです。食漫画を描いた経験で、『戦争めし』を読者に伝える方法を体得したと言ってよいかもしれません。茶碗一杯のごはんにしても、みなさんに「美味しそう」と思っていただける絵を目指しています。

最近「週刊漫画ゴラク」(日本文芸社)で連載スタートした『闇市めし』。この作品は、ちょっとタッチを変えて、“大人テイスト”で描こうと思っています。スクリーン・トーンの削りと描き込みだけの世界で、戦後の混乱期を表現したいと思っています。それこそ『島之内ファミリー』でデビューした当時の絵柄に近いかもしれません。ちょっとシリアスな話にしていこうと思っていますね。

気分転換ではないけれど、毎回違う世界にチャレンジしようと思っています。同じようなタッチの中でも、一作品ずつちょっと変えているんです。「戦争」や「食事」をテーマにすることには、実は“こだわりがない”と言っても過言ではない。若い頃にゼネコン・マンとして体験した土木の世界も漫画にしたいし、チャレンジしたいテーマは山ほどあります。

だけど「戦争」のテーマについては、記憶が失われていくことへの焦りがあるのは先述のとおりです。広島や長崎では、語り部さんを20~30代の若い方たちが引き継いでいるのを目にし、伝えることの大切さを感じました。

シベリア抑留の記憶も失われていっています。ロシアに取材に行きたくても、ウクライナとの戦争が始まってしまいました。だから「取材できるうちに、やっておくこと」の方が大切だと思います。いろいろ遠回りしてきたからこそ、描くことができる漫画もあります。それでも、「今のうちに、やらなければならないことがある」と最近は強く思うのです。

取材・文・写真=メモリーバンク *文中一部敬称略

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