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【漫画家のまんなか。vol.17 ゆでたまご・嶋田隆司】小学4年生で大学ノートに描いたキン肉マン。相棒との友情が変わらずにあるから、今も続いているんだと思います。

トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。

今回は、「ebookjapan」でも毎週連載していて、本年原作生誕45周年とCBC/TBS系列「アガルアニメ」枠で、7月7日(日)よる11時55分より、TVアニメ『キン肉マン』完璧超人始祖編が放送されることで話題となっている『キン肉マン』の作者、ゆでたまごの原作シナリオ担当・嶋田隆司先生にお話をうかがいます。

1979年に連載を開始し、「週刊少年ジャンプ」の黄金期を牽引した『キン肉マン』。テレビアニメや劇場版も制作され、キャラクターグッズも大人気に。特に超人をかたどったキン肉マン消しゴム(通称:キンケシ)は、社会現象ともいえる大ブームを巻き起こしました。

そんな『キン肉マン』の生みの親である嶋田先生と作画担当の中井義則先生、二人の出会いから、18歳で漫画家デビューに至る道のり、そして「ジャンプ」連載当時のエピソードなど、貴重なお話をたっぷりとお聞きしました。

▼嶋田隆司(ゆでたまご)
ゆでたまごは原作・嶋田隆司と作画・中井義則による共同ペンネーム。ともに大阪府出身で、小学校で出会い創作活動を開始する。1978年に『キン肉マン』で第9回赤塚賞に準入選。翌年「週刊少年ジャンプ」(集英社)にて連載デビューを果たす。そのほか代表作に『キン肉マンII世』『闘将!!拉麵男』『ゆうれい小僧がやってきた!』などがある。2011年より『キン肉マン』新シリーズの連載を開始し、現在は「週刊プレイボーイ」(集英社)とWebサイト「週プレNEWS」で同作を連載中。2024年7月より新作アニメ「キン肉マン 完璧超人始祖編」の放送がスタートする。

キン肉マン 著者:ゆでたまご

すべての始まりは、大学ノートに描いたキン肉マンだった

親が漫画好きだったこともあって、うちには「マガジン」とか「サンデー」とか漫画雑誌がよく置かれていました。でも、あまり漫画を読んじゃ駄目だと言われていて、学習雑誌の「小学一年生」なんかを買ってもらっていましたね。親はこれで少しは勉強するやろと思っていたみたいだけど、載っているのは漫画ばっかりだったじゃないですか(笑)。僕らの時は、藤子不二雄先生の『オバケのQ太郎』、それから手塚治虫先生の『ガムガムパンチ』。『ガムガムパンチ』は、魔法のガムを食べると空想したものが形になるというお話で、車を想像しながらガムを膨らませると、車になるんですよ。乗ると溶けちゃったりしてね。それで「漫画って面白いなー」と思って、小学校4年生の時には自分でも漫画を描くようになっていました。それが『キン肉マン』です。大学ノートにコマを割って描いて、それを学校に持っていくとすごい人気で、自分のクラスだけじゃなくて全クラスにノートがまわっていて、どこに行ったかわからないぐらい。みんなが面白がって読んでくれることが嬉しくて、その頃から漫画家になりたいという漠然とした想いはありました。

キン肉マンの初期のアイデアは『ウルトラマン』や『スペクトルマン』の影響が大きいと思います。漫画家を目指している当時の少年たちはみんな読んでいたと思うんですけど、石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』に漫画の描き方が詳しく紹介されていて、それでコマの割り方とかを覚えました。漫画を描く道具も載っていて、線を引くのにカラス口(からすぐち)っていうものがいると知って、文房具屋さんに見に行ったんですが、めちゃめちゃ高くて買えなくて。今は普通にペンで引くんですけど、当時は知らないから、「カラス口でやらないと駄目なんや」って思っていましたね。

相棒・中井義則との出会い。高校卒業までにプロになることが二人の目標に

実は相棒の中井くんとの出会いも小学校4年生の時。中井くんがうちの学校に転校してきたんですが、住んでいた団地が一緒で、バスに乗って学校に行くのも一緒だったので仲良くなっていきました。やっぱり彼も僕が描いたキン肉マンを読んでいたくちだったんです。中井くんはそれまで全然漫画を読んだことがなくて、漫画家というより野球選手になりたかったんですよ。一方の僕はインクの匂いを嗅いだだけで、どの漫画雑誌かわかるくらい詳しかったので、その影響で中井くんもどんどん漫画に興味を持つようになりました。彼はもともと絵が上手くて、そのうち彼もノートにコマを割って漫画を描くようになって、そしたらそれが結構おもしろい。僕と中井くんのノートが学校で回覧されるようになって、それじゃあ合作してみようとなったんです。

漫画賞というものを知ったのは小学校5年生の時です。交通事故で頭蓋骨3カ所を骨折する大ケガをして、3カ月の間入院することになったんですが、入院中は頭に刺激がいくからテレビはダメと言われていて、そしたらお袋が漫画雑誌をたくさん買ってきてくれたんです。そこで「週刊少年ジャンプ」を見ていたら、漫画賞というものがあって受賞作が雑誌に載っていました。こういうのに応募して漫画家になるんだと初めて知りましたね。

中学校も中井くんと一緒で、その頃にはもうプロの漫画家になるという意志を持っていました。うちは裕福な家庭じゃなかったし、中井くんの家も母子家庭。大学には行けないだろうから漫画家になろうと、それで高校卒業するまでに漫画家になることが2人の目標になりました。

赤塚賞で準入選。他の漫画には絶対負けない自信があった

当時、近鉄百貨店で近鉄漫画賞というのをやっていて、中学生の時に2人で『ラーメン屋のトンやん』という漫画を描いて送ったところ、それが入選に。手塚治虫先生、水島新司先生、里中満智子先生といった錚々たる方々が審査員となり選考してくださいました。百貨店の中にプロの原稿が展示されているコーナーがあって、そこで生原稿というものを初めて見たんです。ホワイトで修正されていたり、写植が貼ってあったりして、「印刷されたものより案外汚いもんやなー」って(笑)。で、僕らの入選作も展示されていたんですが「あれ、全然幼いな」と。その差をハッキリ感じました。

高校生になってからは日本一の漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」でデビューすることを明確に目指していました。高校1年生でギャグ漫画の赤塚賞に『ゴングですよ』、それからストーリー漫画の手塚賞に『マンモス』という作品を送ったんですが選外に。そしたらある日電話がかかってきて、「きみたち面白いもの描くから、また描いて送っておいで」って。それが編集者の中野和雄さんでした。その時中野さんは「月刊少年ジャンプ」にいらっしゃったんです。でも僕らが目指していたのは「週刊少年ジャンプ」。だから、これちょっと嫌だなーと思って(笑)、それで黙って週刊の方に応募しました。その時に応募したのが『キン肉マン』です。それまでも応募していた作品はあったんですが、自分たちの中でもう一つ手応えがなかった。それで高校3年生の最後のチャンスに何をやろうかと2人で話していて、「あ、キン肉マンがあるやん」「そうや、キン肉マンならいけるかもしれん」ってなったんです。応募した時はもう自信満々でしたね。すごい手応えもあったし。掲載されたら絶対に読者アンケート1位を取るだろうなとか、そんなことまで考えていました。他のギャグ漫画には絶対負けない自信があったんです。そしたらまた中野さんから電話がかかってきて、「きみたち週刊に送ったね」って(笑)。でも「面白いから、賞を取るかもしれない」って言われたんですよ。中井くんにも同じように電話があって、それで団地の2階の両端に住んでいた僕らは一斉にドアを開けて走っていって、「やったー」って握手して。懐かしい思い出です。

結局『キン肉マン』は準入選になって、中野さんも「週刊少年ジャンプ」の編集部に戻ってくることになりました。赤塚賞の受賞記念パーティはホテルオークラで開かれて、これがまた派手なパーティでしたね。芸能人や歌手もいて、ビンゴ大会の景品も豪華そのもの。「こんな夢のような世界があるんやな」って思いました。高校生の僕らにとってはすごい世界で、またここに戻ってきたいと思いましたし、戻ってくるにはどうすればいいか……、それはやっぱり「ジャンプ」で漫画を描くことなんだと思いました。

ところが、うちのお袋も中井くんのお袋さんも漫画家になることには大反対で絶対駄目だと。実は応募した時には就職先も決まっていて、僕はカーテンレールの会社で中井くんはデザイン会社。高校1年生の時に父親を亡くしていたので、お袋としては決まった就職先にちゃんと行ってほしかったんだと思います。そしたら、中野さんと編集長の西村繁男さんが、わざわざ大阪まで来てくれたんです。西村さんが「もし漫画家で駄目だったら、東京で就職をお世話します」とお袋たちを説得してくれて、それで許しをもらえました。あの時の西村さんの一言がなかったら、漫画家にはなれなかったですね。

編集者の助言で生まれた分業制。2人で創作に打ち込んだジャンプ執筆室

「週刊少年ジャンプ」で2回の読み切り掲載を経て、いよいよ1979年『キン肉マン』の連載がスタートしました。「ジャンプ」の読者アンケートで速報というのが出るんですけど、なんと『キン肉マン』が1位に。それまでは車田正美先生の『リングにかけろ』がずっと1位で、車田先生が担当編集に「今週も1位だろ」と聞いたところ、「いや……『キン肉マン』っていうのが1位なんです」と。「なんだそりゃ!」と激怒されたと聞きました(笑)。最終的には『リングにかけろ』が1位で、『キン肉マン』は2位という結果になったんですが、車田先生ほどの人気作家でも、順位に一喜一憂するんですよ。編集長の西村さんも言っていましたが、あの頃の「ジャンプ」の先生方は「1位を取らなきゃ、漫画家じゃない」っていう考え方だったから、そこで1位を取る難しさというのは実感しました。

高校卒業後は、大阪の公団住宅で中井くんと共同生活をしながら漫画を執筆していたんですが、小学校からの友達とはいえ同じ家で一緒に仕事をするようになったら、だんだん息がつまってきて、中井くんがご飯を食べる時の箸の上げ下げすらも腹が立ってきたんです(笑)。それで僕が「もう辞める」って言い出すと、中野さんが慌てて大阪に来て、「何言ってんの。『キン肉マン』人気あるんだよ」って引き止められました。それでも嫌になって実家に戻ったんですけど、1週間もしたら「また漫画やりたいな」という気持ちになってきて、そこで中野さんが「じゃあ分業にしよう」と提案してくれたんです。「嶋田くんはお話を考えるのが上手いから原作を」「中井くんは絵が上手いから作画をやりなさい」って。それで今の分業体制が生まれました。

そして、中井くんはひと足先に東京へ行くのですが、僕は用心深くて、まだ大阪でじっとしていました。当時のやり取りはすごかったですよ。僕が原作・シナリオを書いて航空便で送って、それを中井くんと中野さんは郵便局で待っていて、受け取ったら新橋で打合せ。そこで僕に電話をかけてきて、また打合せするという感じでした。でもそんな風にやっていたら、僕の考えていることと中井くんの考えていることにちょっとズレが出てきたんですよね。これはもう直接会って話をしないと……と、中井くんの上京から1年後に僕も東京へ行くことになりました。

成増にあった風呂なし共同トイレの下宿に中井くんと一緒に住むことになるのですが、中井くんは彼女ができて全然帰ってこなくて。僕の方は東京に知り合いもいないし、食べ物も高いし、うどんも真っ黒だし……大阪が好きやったから、これでやっていけんのかと毎日泣いてましたよね。でもジャンプ編集部の一角に執筆室というのがあって、そこやったら知っている人がいっぱいいるんです。中井くんと僕はそこで寝泊まりして仕事をするようになりました。出前もとり放題です(笑)。そこで2人そろってやるようになったら、大阪と東京にいた時みたいなズレはなくなってきました。プロレスの技も実際にどういう技か2人でかけ合ったりしてね。やっぱり打合せってちゃんと対面でやらなきゃいけないなと思いました。

連載打ち切りの危機を乗り越えて、読者アンケート1位に

毎年「ジャンプ」は新年号になると、漫画家全員が集合して表紙になっていたんですが、あれが憧れでした。僕らが「ジャンプ」に入った年は富士山をバックに羽織袴で撮影することになり、前の日はホテルでの大宴会でした。本宮ひろ志先生はじめ、車田先生、宮下あきら先生とか怖い先生ばっかり(笑)。西村さんもまた飲むとすごい怖いんですよ。それで、みんな何か芸をしないと駄目なんです。僕らは2人だから漫才で乗り切りましたけど、後輩の鳥山明先生は1人でウルトラマンの歌を唄っていましたね。

僕が東京に出てきてすぐに、『キン肉マン』はアメリカ遠征編に突入するんですが、そこでドッと人気がなくなってしまって。中野さんが「来年の新年号の表紙だけどさ、君達いないかもしれないね」って言うんです。「え、まじで? 大阪にスカウトまでしに来たのに?」って思いました。その頃の僕らは、まだ学校の部活のノリで漫画を描いていたような気がします。編集長の西村さんが校長先生で、中野さんは担任の先生。ジャンプ編集部は職員室みたいな感覚でした。でも学校の先生ってそんな冷たいこと言わないじゃないですか。「あ、ここは本当にプロの世界なんやな」ってあの時初めて思いました。

そこで西村さんが飯食いに行こうと呼んでくれて、「お前ら何がやりたいんだ」と聞かれ、口から出まかせで「超人オリンピックをもう1回やりたいです」と言ったんです。打ち切りを宣告されるのかと覚悟していたら、「やりなさい」と言ってくれました。『キン肉マン』は読者全体で見るとあまり人気は高くなかったんですが、小学校4年生の層に限っては絶大なる人気があったんです。当時「ジャンプ」は子どもの層に弱いというのがあったので、西村さんも何とか『キン肉マン』で子ども人気を取り戻したいという考えがあったんだと思います。そして再び超人オリンピックをやったら、読者アンケートで2位、3位を取るようになりました。みんな待っていたんですね。そして僕たちが連載3年目の時、「7人の悪魔超人編」で テリーマンとザ・魔雲天(マウンテン)の戦いを描きました。テリーが奇跡の生還を果たし、「ただいまキン肉マン」「おかえりテリーマン!!」というラストシーン。巻頭カラーを飾ったこの回で、初めて1位を取ることができました。

アニメ放送開始、そして空前のキンケシブーム

1位を取ってからは順調でしたが、それでも『北斗の拳』や『キャプテン翼』が次々と1位に入ってくるんですよ。かなりバチバチの競争でした。編集者同士も仲悪いですし、相手の原稿がクライマックスに入るって聞いたら、僕たちもクライマックスを前倒しにして、それを潰しに行ったりして(笑)。本当に順繰りに1位が変わっていく感じで毎週一喜一憂していました。人気作家になった実感はあまりなくて、それよりも1位を取る戦いに必死だったという印象の方が大きいです。その頃は3代目編集者の高橋さんと高円寺のとんかつ屋さんで打合せをしていたんですけど、読者アンケートで1位を取ったら、特上ロースかつ定食に豚汁。取れなかったら、普通のロースカツ定食で普通の味噌汁でした。もちろん自分でお金を出して食べられるんですけど、でもそれがご褒美って感じで、ものすごく嬉しかったことを覚えています。

人気作家の実感がないまま過ごしていた所から一転するのが、連載4年目で決まったアニメ化です。『Dr.スランプ』がアニメ化されてすごい人気で、僕たちもアニメになったらいいなと思っていたんですけど、4年目にとうとう決まりました。アニメ放送が始まって、ある時スーパーの前を通りかかったら、子どもたちの行列ができていたんです。列の前の方に行ってみたら、みんな『キン肉マン』のガチャポンを回してるんですよ。「え、すごい」と思って、人気作家になったんだという実感がわきました。昔は版権とかまだちゃんとしてなくて、どんな商品が出てるとか全く把握していなかったんですよ。だからキンケシも最初はあんまりわかってなくて、子どもたちが夢中になっていてビックリ。牧歌的な時代でした。

大きな影響を受けた、梶原一騎先生のストーリー展開

原作者として影響を受けたのは、梶原一騎先生ですね。先生の考えるストーリー展開にはものすごく影響を受けました。例えば『巨人の星』での大リーグボール1号。あえてバットに球をぶつけて、ランナーをアウトにするという、すごいことを考えるなと思いました。そしてそれが花形に破られるじゃないですか。次は大リーグボール2号・消える魔球ですよ。それも破られて、大リーグボール3号へ。キン肉マンもキン肉バスターが破られて、特訓してキン肉ドライバーが生まれて、最後はマッスル・スパークです。

それから超人たちの変な鳴き声「ケケケ~」とか「カカカ~」とか。あれも梶原先生がやっていましたね。それとキン肉マンが「グ、グムー」ってよく言うんですけど、やっぱり梶原先生の作品を読むと「グムー」と言っているんですよね。読者に「グムーって何ですか」ってよく聞かれるんですけど、答えに窮(きゅう)している時にグムーなんですけど、あれはもう完全に梶原先生の影響です。

一番好きな作品を挙げろと言われると難しいけど、やっぱり『あしたのジョー』が好きです。作画のちばてつや先生も大好きでしたから。『おれは鉄兵』とか『ハリスの旋風』とか、ちば先生は原作がなくても一人で描ける先生なんですよね。そんな巨匠同士が組むっていうのはすごいですよ。よくあの連載を続けられたなと思って、ファンからするとたまらないタッグでした。奇跡の漫画です。

相棒との変わらない友情があるから、キン肉マンは続いていく

長年作品を創るうえで大切にしているのは、常に新しいものや流行に敏感であることでしょうか。『キン肉マン』は、僕らが小学校から高校までに観た映画や本、梶原先生の漫画とかの蓄積で成り立っています。だからもし大学に行っていたら、もっとインプットしていたものが違うのかなという感覚はありますね。黒沢明監督も、“創造とは記憶の産物だ”ということをおっしゃっていて、やっぱり小さい時からの記憶の積み重ねでしか創造できないから、もっと勉強しといたらよかったと思うこともあります。だからこそ今でも格闘技の試合を見に行きますし、柔術も習いに行っています。中井くんも絵画教室に通ったりして勉強を続けています。

僕たちが26歳の時に『キン肉マン』は一度連載を終えているんですが、その時は「もう技が尽きた」と感じていました。でも50歳になって再び連載を始めてから13年、まだまだ技があるんですよ。総合格闘技の技を入れたり、ブレイクダンスの動きを参考にしたり、シルク・ドゥ・ソレイユからヒントを得たり、だからまだまだ出てくると信じたいですよね。昔は普通の技で魅せるのが難しくて、毎回のように派手な技を考えていましたが、今は中井くんの絵がすごく上手くなっているから、バックドロップとかブレーンバスターとか地味な技でも上手く魅せてくれるので、そこはちょっと楽になったと思います。今、プロレスラーの方たちがキン肉バスターやマッスル・スパークを真似してくれるのも嬉しいですよね。

キン肉マン誕生45周年を迎え、僕たちコンビも50年以上ともに仕事をしてきました。今も毎週打合せをしますし、2人でご飯に行くこともあります。今の時代、原作担当と作画担当がまったく会わないこともあるみたいですが、僕たちは必ず毎週会っています。いまだに学生時代の話もしますし、キン肉マン以外のこともダラダラと話しています。小学校で出会って63歳まで一緒というのは中々ない、運命的なパートナーかもしれない。藤子不二雄先生の活動期間よりも長くなっちゃってるんですよ。何よりも『キン肉マン』は友情をテーマにしている作品なので、僕たち2人がバラバラになったら読者がガッカリすると思うんですよね、友情を信じている読者が。SNSで「キン肉マンは人生の教科書や」とか「必ず履修しておかなければいけない」と言ってくれる読者もいますしね。小学校4年生で出会った時からの友情、そして『キン肉マン』の核となる友情が変わらずにあるから、続いているんだと思います。

新アニメシリーズ放送決定。次なる目標は世界へ

現在『キン肉マン』は、「週刊プレイボーイ」とWebサイト「週プレNEWS」で連載中です。ずっと誌面での連載にこだわってきたので、最初にWebで連載と聞いた時には「そんなにWebで読まれるのかな」という気持ちもありました。でも、「読者からの超人募集やキャラクターの人気投票、強さの数値化などをやったのは、ゆでたまごが最初。Webでもパイオニアになりましょう」というのが殺し文句でした。やはりパイオニアでありたいという思いがあります。今はもうみんなスマホとかで漫画読んでるじゃないですか。こんな時代が来るとは思わなかったですね。

そしていよいよ2024年7月から、新作アニメ「キン肉マン 完璧超人始祖(パーフェクト・オリジン)編」の放送が始まります。40年前のアニメを今もよく見返しますが、当時のアニメはセル画でアナログ。今はデジタルになりクオリティがすごいです。技の迫力も違いますし、みなさん新作を見たらビックリすると思いますよ。初回放送(7月7日【日】よる11時55分から放送)はコミックス1巻から36巻までの物語を振り返る第0話が放送される予定です。僕もまだ見ていないんですが、脚本家の方が「絶対おもしろいですから」と言ってくれているので、すごく楽しみです。

最近は新作アニメの話題をSNSで発信すると、子どもの頃にキン肉マンを見ていた外国の方がいっぱい反応してくれて、それがすごく嬉しいですね。中井くんとも話していますが、『キン肉マン』をもっともっと世界に広めていきたい。今回の新作アニメもその一歩です。そしてまた漫画を創って、世界中の人に見てもらいたいなと思っています。

取材・文=白石さやか 写真=田中和弘 *文中一部敬称略

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