『血の轍』僕のファム・ファタルはママ? ──自己の探求者・押見修造が描く毒親の恐怖とその先
押見修造先生が「ビッグコミックスペリオール」で連載する『血の轍』(ちのわだち)。あえて分類すればサスペンスになるだろうが、ホラー作品として紹介したいほどの恐ろしさである。殺人鬼や怪物によるものではなく、展開と描写の相乗効果で「頭がおかしくなってゆく」ような心理的恐怖だ。
とはいえ恐怖感を楽しむ目的で作られていない点でホラーとは言いがたい。本作もこれまでの作品と同様に、押見修造という漫画家が長年にわたって究めてきた「自己と向き合う物語」として読むと一層おもしろい。
あらすじ:毒母と地獄へ堕ちてゆくサイコスリラー
主人公の長部静一(おさべせいいち)は内向的な中学生。やさしく美しい母・静子からちょっと行き過ぎた愛情を注がれつつも、友人とふざけあったり同級生の吹石由衣子(ふきいしゆいこ)に恋をしたりして穏やかに暮らしていた。
『血の轍』 ©押見修造/小学館
しかしある日、母・静子が起こした事件により静一の暮らしは地獄へと向かい出す。「ママなんであんなことしたん?」「僕が、ママを助けなきゃ」……事件をめぐって静一の心はどんどん崩壊していく。
『血の轍』 ©押見修造/小学館
毒母に侵された息子の表情が鮮烈に描かれ、抽象画のような筆致で精神状態が表現されることで恐ろしさを増していく。それでも、静一が内省をくり返してたどり着く結末が気になり、読むのを止めることができない作品である。
無料試読分だけでも、静かでありながら奥の方からふつふつと恐怖が迫ってくるのを感じられるはず。まずは本作に流れる空気を味わってみてほしい。
ファム・ファタルは吹石か、ママか?
押見作品にはファム・ファタルがほぼ100%登場する。「ファム・ファタル」とはフランス語で「運命の女」を意味し、同時に男を破滅させる「魔性の女」を指す言葉だ。2017年に発売された画集も『ファムファタル』と名付けられていることから、押見先生自身もそれをひとつの軸としていると言っていいだろう。
『血の轍』では、キーとなる女性として静一と恋に落ちる少女・吹石が登場する。彼女は静一の母・静子の異常性を指摘し、彼を解放しようと行動する推進力をもつ人物だ。
『血の轍』 ©押見修造/小学館
そういう意味で吹石は「運命の女」と言えるかもしれない。しかし、静一を破滅させる「魔性の女」としてやはり母・静子の存在は無視できない。彼は「ママに愛されなくなること」を、何よりも恐れてしまうからだ。
『血の轍』 ©押見修造/小学館
毒親は子を支配する。子の意に反して強制的に自分の思い通りにする支配もあるが、もっと毒性が強いのは子の思考自体を掌握してしまうことだ。吹石と出会った静一は支配からの脱却を試みるも、生まれた頃から毒されつづけた彼の思考はすでにママなしに存在しえなくなっているのである。
『血の轍』 ©押見修造/小学館
「僕」のあり方を大胆に描きだす押見節、炸裂!
これまでも他者、特に女性とのかかわりを通して新たな自己を築いていく主人公を描き続けてきた押見先生は、本作で新たに「母親」を持ち出した。それは思春期に意識しはじめる性の対象としての「女」とはまた別の存在である。
静一が何度も「僕は僕のもの」と自分に言い聞かせるシーンが示すように、生まれながらの支配により親と自分を別の人間として切り離せなくなってしまうところが毒親の恐ろしさだ。
『血の轍』 ©押見修造/小学館
『血の轍』を、毒親という存在から自己を捉えようとする試みとして最後まで見届けたい。特に物語のクライマックスに向けて吹石がどう絡んでくるかは注目したいところ。ファム・ファタルとなりうる2人の女性(ママと吹石)と静一が結ぶ関係性こそ、本作の結末として「僕」のあり方を象徴することになるのではないだろうか。