歴史マンガでめぐる 日本の名城特集
近年、空前の“城巡り”ブームにわいています。人気ドラマなどに影響を受けた歴史ブーム、さらに訪日外国人観光客の増加などの要因が重なって、日本の歴史を再認識できる場所として、城が注目されているのです。
日本の城には、集落の周囲を土塁や空堀で囲った原始的なものから、石垣を築いた本格的なものまで、さまざまなものがあります。要害や砦など規模の小さいものまで含めると、およそ2万5000もの城が築かれたといわれています。
しかし江戸幕府を開いた徳川家康が、太平の世を盤石なものとするため、「一国一城令」を出して多くの城を廃城としました。さらに明治維新の廃藩置県や昭和の大戦を経て、現存する城はわずかとなっています。しかし、城跡に残された記憶は永遠不滅。マンガに描かれた名城をたどり、歴史に想いを馳せましょう。
難攻不落の名城にまつわるギャグマンガ
大羽 快の『殿といっしょ』は、戦国時代を舞台としたギャグ作品。歴史上の逸話をベースに、捧腹絶倒の4コママンガに仕立てています。
時は戦国、群雄割拠の時代。それは、強者が弱者を制する下克上の世でした。天下取りを目指して戦う武将と、命を懸けてつき従う家臣たち――。そんなイメージを覆す、戦国ギャグの世界へご案内します。
本作に描かれているのは、眼帯マニアの伊達政宗など超個性的な殿たち。そして、殿のボケにツッコミを入れる家臣たちです。今回は、自分の居城が大好きな殿を紹介します。
戦国武将の生き様を描く武勇伝は、マンガの人気テーマとして愛されてきました。しかし大羽 快の『殿といっしょ』は、そうした正攻法で戦国テーマを描くのではなく、4コマのギャグマンガにすることで新境地を切り開いています。
今回は、居城の自慢が大好きな殿をご紹介します。小田原北条氏の第三代目当主・氏康と、第四代目・氏政の親子です。
15世紀中頃に、大森氏によって築かれた小田原城。その後、小田原北条氏の居城となり、関東支配の中心拠点として拡張整備されて、日本最大の中世城郭に発展したとされています。明治維新にともなう廃城と、関東大震災を経て、かつての威容は失われてしまいました。しかし、昭和に入って再建が進み、現代にその姿を甦らせています。
『殿といっしょ』©Kai Ooba 3巻P074より
戦国の魁(さきがけ)といわれる北条早雲。明応4(1495)年、鹿狩りと称して兵士を送り込んで、大森藤頼から小田原城を奪っています。
以降、小田原北条氏は五代に渡る栄華を築きました。第三代当主の北条氏康は、「相模の獅子」の異名で恐れられた戦国武将。籠城戦に長けていて、小田原城を攻めた武田信玄と上杉謙信を跳ね返した歴史があります。
『殿といっしょ』には、北条氏康の「居城自慢」が描かれています。「こんなに頑強な城に住んでいたら 身を守るヨロイや服など不要だと思い至った」という氏康。ふんどし1枚を身につける他は、ほとんど裸で暮らしています。難攻不落の小田原城への信頼ゆえの行動ですが、氏康・氏政親子のやり取りに、読者も思わず噴き出してしまいます。
末森城で果たされる菊花の約束
戦国武将・前田慶次の生き様を描く『花の慶次―雲のかなたに―』は、「週刊少年ジャンプ」(集英社)で1990年から93年に連載され、大人気となりました。
本作は、隆 慶一郎の時代小説『一夢庵風流記』を原作に、少年マンガらしいアレンジが加えられています。『北斗の拳』(原作:武論尊)で人気の原 哲夫が、圧倒的な画力で描く迫力の戦国絵巻です。
前田慶次は、戦国の世に義理と人情を貫いた傾奇者(かぶきもの)。末森(すえもり)城で繰り広げられた過酷な籠城戦で、親友のため命を賭して戦っています。
天正10(1582)年、京都本能寺に滞在していた織田信長が明智光秀に討たれました。豊臣秀吉はすぐに上洛を果たし、山崎の戦いで主君の仇を取っています。
こうして天下人となった豊臣秀吉に、対抗したのが徳川家康です。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉陣営と、織田信雄・徳川家康陣営で合戦が行われました。この動乱は、北陸の地にも飛び火しています。
前田利家が、家臣・奥村助右衛門(すけえもん)に守らせていた末森城。その規模は当時、能登屈指を誇ったといいます。この北陸の要衝を、越中の猛将・佐々成政(さっさなりまさ)が急襲。奥村助右衛門率いる守備隊は、末森城を死守しようと奮戦します。
『花の慶次―雲のかなたに―』©隆慶一郎・原哲夫・麻生未央/コアミックス 1990 2巻P004_005より
天正12(1584)年、前田利家の出城であった末森城が攻められました。敵将・佐々成政が率いる兵は1万5000。それに対し、奥村助右衛門率いる末森城の軍勢はわずか500しかありません。前田利家が、急ぎ兵をかき集めたとしても2500が関の山……。利家は、末森城に援軍を送らず、見殺しにする決断を下しました。
利家の正室・おまつは末森城の窮状を憂いて、利家の甥に当たる武将・前田慶次に訴えます。慶次は加賀随一の傾奇者(かぶきもの)。義をまっとうするためなら、命も惜しくはありません。慶次は「いくさ人ゆえ戦場で果て申す」という言葉を残し、末森城救援に向かいます。
その昔、9月9日の重陽の節句(菊の節句)に、おまつから菊花を賜った慶次と助右衛門。二人で、おまつを守ることを誓いました。その菊花のちぎりを、果たす時が来たのです。慶次は、愛馬の松風とともに戦場に身を投じます。
戦国の夜明けを描く室町大河ロマン
『新九郎、奔(はし)る!』は、北条早雲こと伊勢新九郎盛時の生涯を描く一代記。北条早雲は、室町時代から戦国時代初期にかけて活躍した武将です。のちに戦国大名として関東に名をはせる、小田原北条氏の祖でもあります。
本作の著者は、『究極超人あ〜る』『機動警察パトレイバー』『白暮のクロニクル』など、数々のヒット作を手掛けた人気マンガ家・ゆうきまさみ。
今日、日本100名城に数えられている小田原城。その攻略を足掛かりに、関東に勢力を拡大したことで知られる北条早雲ですが、そのルーツはどのようなものだったのでしょうか。近年分かってきた資料をもとに描かれる、新しい戦国武将伝を紹介します。
動乱の世の幕開けとともに現れ、活躍した男がいました。戦国大名の魁(さきがけ)といわれる北条早雲です。彼は、いかにして戦国大名となったのでしょうか。
これまでの北条早雲像といえば、一介の浪人から下剋上で成り上がったイメージで語られてきました。しかし近年では、室町幕府で要職を担っていた伊勢氏の出身であることが分かっています。
『新九郎、奔る』は、文正元(1466)年に幕を開けます。伊勢千代丸(北条早雲の幼名)は、当年11歳。父親の伊勢備前守盛定(もりさだ)は、伊勢氏宗家の娘・須磨と結婚。須磨の兄である貞親(さだちか)の右腕として出世しています。千代丸は須磨の子ではありませんでしたが、宗家に迎え入れられて、まっすぐに成長していきます。
『新九郎、奔る』©ゆうきまさみ/小学館 1巻P040_041より
伊勢宗家の当主は代々、室町幕府の財政をつかさどる政所執事(まんどころのしつじ)という要職についていました。組織では、金庫の鍵を握る人物に権力が集まるもの。伊勢一族は、幕政に大きな影響力をもつ要職にあったのです。
時代は、風雲急を告げていました。室町幕府八代将軍・足利義政は、長らく世継ぎに恵まれず、弟の義視(よしみ)を後継者として迎えています。しかし正室の日野富子が男児を出産したことで、後継者問題に発展。幕政の二大有力者である、細川勝元と山名宗全の勢力に分かれて刃を交える大乱となってしまいます。世に言う、応仁・文明の乱です。
伊勢一族も、この戦火に巻き込まれていきます。千代丸は一族を守るため、戦乱の最中であるにも関わらず元服。新九郎盛時と名を改めて、一族の領地である荏原(現・岡山県井原市)の高越城で青年時代を送りました。高越城は山陽道の要衝に建てられた山城です。北条早雲ゆかりの地として、今も多くの歴史ファンが訪れています。
現代東京に、江戸城天守の再建を!
202X年――。大手不動産開発業者の堀川昇吾が、前代未聞のプロジェクトを社内会議で提案しました。それは、皇居東御苑内に江戸城天守閣を再建すること。
葛飾北斎、歌川広重など、江戸時代を代表する浮世絵師によって描かれてきた江戸城天守。かつて、富士山や日本橋と並ぶ、江戸のランドマーク的存在でした。しかし今から約360年前、江戸の町を襲った大災害により天守は失われてしまいます。
それから、天守再建は一度も成されたことがありません。宮内庁、文化庁、法の壁に、国民の感情……。様々な課題が想定される中、堀川は現代東京に江戸城を甦らせるべく奮闘します。歴史と建築にまつわる知識満載のエンターテインメントを紹介します。
かつて、強い反対運動が行われた「北品川ヒルズプロジェクト」。実現不可能とまでいわれた再開発事業ですが、反対住民を真っ向から説き伏せて、見事成功に導いた男がいました。天王リーディングの都市開発事業部課長・堀川昇吾です。
彼が提案したのが、江戸城天守再建プロジェクト。徳川三代将軍・家光が造立した「江戸城寛永度天守」を、現代の世に甦らせようという壮大な企画です。
江戸城寛永度天守は、地上5階・地下1階、台座を含め約59mの高さを誇りました。現在の超高層ビル20階の高さに匹敵する威容を誇りましたが、約360年前に起きた「明暦の大火」で焼失してしまったのです。現在では、天守台の石垣だけが残されています。
『江戸城再建』©黒川清作・三浦正幸/小学館 1巻P070_071より
明暦3(1657)年に起きた明暦の大火によって、江戸の6割が焼き払われました。幕政の忠臣であった保科正之は、自ら復興の陣頭指揮に立っています。さらに城下の復興を優先するため、天守再建を見送ることを四代将軍・徳川家綱に進言。それ以来、江戸城の天守が再建されることが叶わぬまま360年の時が過ぎたのです。
現代に江戸城天守を再建するには、450億円の費用がかかるといいます。インバウンド効果で、それを上回る経済効果が見込まれますが、堀川昇吾の前には、宮内庁、文化庁などの関係省庁や、法律の壁が立ちはだかります。
さらに巨大公共事業の実現には、最初に国民の理解を得なければなりません。江戸城天守を再建するという前代未聞のビッグ・プロジェクトは、人々の共感を得ることができるのでしょうか。読者のみなさんも、行く末を見届けてください!
上杉謙信ゆかりの春日山城
上杉謙信は、毘沙門天の化身として恐れられた最強の武将ですが、その正体は「女人」だったと考える説があります。謙信が、生涯不犯(ふぼん)の誓いを立てて、妻を持たなかったことなどの理由から、上杉謙信女性説が唱えられているのです。
この仮説をもとに描かれたマンガが『雪花の虎』です。ラブ・コメディの名手として知られる東村アキコが、上杉謙信を主役に本格戦国ロマンに挑んでいます。
越後国守護代・長尾為景の春日山城に、毘沙門天の化身と予言された赤子が生を受けます。元気に産声を上げたのは、玉のような姫君で……!? 戦乱の世を、虎のごとく駆け抜けた姫武将伝が開幕します!
越後の春日山城主・長尾為景(ためかげ)の妻が、第三子を懐妊しました。その夢枕に毘沙門天が立って、「腹を借りてよいか」と聞いたといいます。毘沙門天は“戦”の神。為景は、生まれてくる赤子が、軍神のごとく勝利をもたらすことを期待します。
享禄3(1530)年1月、雪で白く埋め尽くされた春日山城に、玉のような姫君が生まれました。しかし、時は戦国乱世――。長尾家に求められていたのは、繊細な性格の嫡男・晴景をサポートし、戦場を駆け回る男児の誕生だったのです。
為景は、この女児を最初の思惑どおり男児として育てて、「姫武将」とすることに決めました。寅年に生まれたことから、赤子は虎千代と名づけられています。
『雪花の虎』©東村アキコ/小学館 1巻P078_079より
春日山城は、山の地形を利用した要塞、いわゆる山城でした。東村アキコは、幼少期の上杉謙信・虎千代を、春日山を駆け回る腕白な少女として描いています。
虎千代は、ただ山を駆け回っていたわけではありません。周囲の地形を把握した彼女は、山城を模した手作りの模型を作るようになります。そしてこの模型を用いて、城攻めを想定した模擬戦を繰り広げるのです。
虎千代は、自分を敵軍の武田勢に見立てて、春日山城を落とす計略を練っています。子どもがすることとはいえ、過ぎた遊びに母親の顔も真っ青です。東村アキコは、幼少期の上杉謙信の逸話を挿入することで、その天才ぶりを読者に感じさせています。
兵(つわもの)どもが夢の跡
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」。江戸時代、奥州平泉(現・岩手県平泉町)を訪れた松尾芭蕉が、源 義経終焉の地とされる高館(たかだち)で詠んだ句です。
草木が生い茂る自然の雄大さに比べると、人の世はなんと儚いものでしょうか。時間の経過とともに、史跡が失われていくのは必然といえるのかもしれません。
一方マンガの世界では、タイムマシンのように時空を超えて想像の翼を広げることができます。歴史マンガを読んだ後に、舞台になった城跡を訪ねれば、作品世界の理解が一層深まるはず。築城者や、そこに居城した武将たちに思いを馳せながら、歴史マンガを読んでみてはいかがでしょうか。
執筆:メモリーバンク / 柿原麻美