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なぜ人は疲れると自然へと向かうのか?『詩歌川百景』に見る自然としての人間

人が日常生活に疲れると山に登り、海辺を歩きたくなるのはなぜかとよく考える。非日常の空間だから? 雄大な自然に癒やされるから? こういう表層的な理由の奥には、何かもっと根源的なものがあるんではないか……。

『詩歌川百景』というマンガを読むと、私たちが自然に会いにいくのは「人間自身が自然の存在だから」ではないかと思う。そしてそう思えることが本作のすばらしさのひとつだと。

詩歌川百景 著者:吉田秋生

思い通りにいかない自然を生きる

山形県北部の小さな温泉郷「河鹿沢(かじかざわ)温泉」という架空の町が舞台の本作は、温泉旅館「あづまや」で湯守として働く青年・和樹(かずき)、旅館の大女将の孫・妙(たえ)などを中心に物語が進んでいく。

温泉町を囲む大きな自然は気まぐれだ。湧き出る温泉を適温に保つだけでも何年もの修行が必要だし、都会の人びとにとっては美しいだけの雪も生活を大きく変えてしまう。

この町の人びとは常に自然に振り回され、同時に自然に守られながら生きている。

ここに暮らす老若男女がそれぞれ背負う人生と心の機微が、豊かな風景描写と重ね合わせるように描かれていく作品だ。

思い通りにいかない人間を生きる

作者・吉田秋生先生のマンガでは「親(大人)に振り回される子ども」が頻繁に描かれ、本作も例外ではない。

和樹は幼少期に実父の虐待に遭う。その後母が再婚した義父・浅野は病死。母は弟・智樹(ともき)を連れて新たな相手の元へ去り、和樹はおじの飯田に引き取られる。かと思えば母が新たな弟・守(まもる)を預けにきて……とあまりに複雑な子ども時代を送った。

さらにこの小さな温泉町という舞台が事態を一層面倒くさくする。田舎は個人的な問題を放っておいてはくれない。あたたかく閉じたコミュニティのなかであらゆる事情が勝手に広まり解釈され、いろんな人の思惑が直接降り掛かる。

例えば、離ればなれになった弟・智樹の悪いうわさで咎められる場面があるが、和樹にはどうしようもないことだ。

人間が自然に振り回されるのと同じように、子供たちは大人に翻弄されてしまう。誰もが自分で選べない環境に生まれ育ち、自分でコントロールしきれない問題ばかりに直面する。

しかし同時に誰かに救われてもいる。いつだって人は人にどうしようもなく傷つけられながら、人に守られて生きているのだ。

自然の存在として、祈るように生きる

自然の近くで生活を送る人びとはよく神に祈る。恐ろしく気まぐれな自然のなかで、無事に暮らせますようにと。それは、人間の手で自然をコントロールすることはできないと知っているからだ。

時刻通りに来る電車、指示通りに動く機械、設計通りに建つビル。すべてが意図に基づいて計画・管理され、より効率を求めて改善されていく便利な世界は、人間の脳が作りだした人工のものだ。

私たちが人工の世界に疲れて自然へ出かけるのは、自分が本来自然の存在であることを思い出したくなるからではないか。予定通りに仕事をこなす労働者を演じる人間も、天災を制御できないのと同じようにどうしようもなく生まれ、どうしようもなく感動したり絶望したり誰かを愛したり愛さなかったりしながら死んでゆく。

人間も自然なのだから、すべてをコントロールしようとせずなんとか大丈夫になることを祈りながら生きていくしかないと思える。『詩歌川百景』の魅力のひとつはそういうところにあるのではないだろうか。

執筆: ネゴト / サトーカンナ

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