もう『矢野くんの普通の日々』みたいなやさしい世界で生きていたいんですよ
『矢野くんの普通の日々』というバッチバチの学園青春ラブコメディ作品が、少女マンガでなく青年マンガジャンルに括られており、はて?
しかしそれが一体どういうことか作品を読むとよくわかる。くだらないことで友だちと笑いあうだけの日も、心が恋しかできなくなっちゃう日も、それがいまや普通のようで普通じゃないことを大人は知っている……。
普通をめざして生きる男・矢野くん
眼帯に絆創膏、鼻血を流しながら物憂げな視線を送ってくるのが本作の中心人物となる矢野くんだ。表紙からちょっと暗い展開を覚悟したが、読みはじめると穏やかなストーリー。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社
ギャグマンガ並みに不運に襲われケガをしまくる謎体質に加え、世間知らずを極めたピュア男・矢野剛。彼はその変わった特性から「普通の高校生活を送ること」を切に願っている。
そんな矢野くんが、しっかり者で心配性の学級委員長・吉田清子とくりひろげる恋模様、また彼を中心にクラスメイトたちが送る青春の日々を見守るスタイルのマンガだ。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社 第1巻 第2話より
不器用さと「普通の日々」へのまっすぐなあこがれにクラスメイト全員がいわば虜、どうにも応援したくなってしまう矢野くん。この異様な魅力を放つ男はなんなんだよ!
普通の日々のよろこび
矢野くんにふりかかる物理の不運と同じくらい、じつはわたしたちも不運から逃れられていない。
わたしたちの生きる世界では発達しすぎた資本主義とインターネットが競争を加速させ、誰もが何らかの評価にさらされ存在の価値を問われてしまう日々がもうずっと続いているのだ。世捨て人にでもならないかぎり自動的にそこに放り込まれてしまう、たまたまこの時代に生まれただけで……。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社 第1巻 第2話より
毎朝顔に切り傷を作ってくる矢野くん以上に、SNSや嫌なニュースを見るたびわたしたちの目に見えない部分はけっこうボロボロになっているのかもしれない。
だから「はじめて食べるハンバーガーがおいしい」だの「みんなともっと仲良くなりたい」だの言いながら、ただ必死に目の前の日々を生きる矢野くんがわれわれの目にまぶしく映ることは、もはや不思議ではない。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社 第2巻 第11話より
矢野くんとやさしい世界
『矢野くんの普通の日々』のなかで、作者は徹底的にやさしい世界を作りあげている。
作中には顔を見て「おはよう」と言い合うシーンがひじょうに多く、人が人と距離を縮めていくコミュニケーションとして大事に描かれているのがわかる。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社 第1巻 第1話より
さらに吉田さんが矢野くんに「交換ノート」をやってみようと持ちかけるシーンに見られるように、登場人物が相手の内部に一歩踏み込むときの言動はいつも思いやりに満ちている。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社 第3巻 第24話より
ああ、他者が自分には計り知れない闇を抱えていることを知りながらゆっくりと一対一の関係を深めてゆくような、やさしい世界を描いてくれるマンガがここにあったのだ。
見えない傷だらけの大人たちよ
少女マンガにこの要素がないとは言わない、しかしここまで思慮されたやさしさを提供されるとしっかり青年向けだなあと思う。
もちろん恋愛物語やコメディとしてもおもしろく、なにより田村先生の丁寧な線で描かれる絵! 特に人物の表情にフォーカスした瞬間はハッとするほど美しい。やーいろいろ言ってきたけどわたしも「矢野くんビジュアルよすぎるだろ!」で読みはじめましたよそりゃあ。
『矢野くんの普通の日々』©田村結衣/講談社 第1巻 第4話より
相手を論破するとか自己責任論を振りかざすムーブメントがはびこるトゲだらけの世界が「もーやんなっちゃった」傷だらけの大人たちよ、やさしい世界はここにあります。