【漫画家のまんなか。vol.6 高橋よしひろ】描くテーマは愛と勇気。大事なモラルというのは大人が持っていなきゃだめだと思っています
トップランナーのルーツと今に迫る「漫画家のまんなか。」シリーズ。
今回は、犬たちの熱い友情と戦いを描いた名作「銀牙」シリーズの著者で知られる漫画家・高橋よしひろ先生にお話しを伺います。
秋田県の東成瀬村で過ごした幼少期のエピソードや師匠・本宮ひろ志との出会い、「銀牙」シリーズ誕生の裏側や続編が始まるまでの紆余曲折など、デビューから50年以上にわたり走り続けてきた高橋先生にたっぷりとお話を伺いました。
▼高橋よしひろ
1953年生まれ。秋田県雄勝郡東成瀬村出身。本宮ひろ志のアシスタントを経て、1972年「週刊少年ジャンプ」にて『下町弁慶』で漫画家デビュー。1983年より代表作となる「銀牙-流れ星 銀-」の連載を開始。同作品で第32回小学館漫画賞受賞。シリーズ続編として『銀牙伝説ウィード』『銀牙伝説WEEDオリオン』『銀牙〜THE LAST WARS〜』『銀牙伝説ノア』などがある。2021年に横手市増田まんが美術館の2代目名誉館長に就任。
貧しい暮らしのなかでも、描き続けた大好きな絵
小学校6年生のときには、学校の先生に「将来何になりますか」と聞かれて、「漫画家になりたいです」と答えていました。たぶんそれが漫画家をめざそうと意識した最初かなと思います。初めて漫画雑誌を読んだのは、小学校4年生か5年生の頃。月刊誌の「少年」や「少年ブック」を見て、カラーがすごく綺麗で「これは手で塗っているのか」「どうやって描いているんだろう」と驚き、すごく興味を惹かれたことを覚えています。
生まれは秋田県雄勝郡東成瀬村という田舎の集落で、10人兄妹の末っ子として育ちました。犬や猫、牛も飼っている家で、僕が物心ついた頃から親父は家で寝てどぶろくを飲んでばっかり。おふくろが働きっぱなしで、姉ちゃんや兄ちゃんが手伝ってはくれたけど、親父はちゃんとした給料をもらうような仕事はしていませんでした。漫画なんか全然買ってもらえない貧乏な家だったんですけど、うちのすぐ裏手に同級生が住んでいて、その子のうちに遊びに行ったら漫画の本がダーッと並んでいたんです。全部は読み切れないから、1冊借りてそれを大事に毎日読んでいたら、親父が「そんなの読んでいたらバカになる」とか言って邪魔してくるんですよ。うちの親父はしょっちゅう子どもをこき使わないとダメな人で、あれこれ言いつける。機嫌が悪いとすぐ怒鳴る人で、300メートル離れた家にも親父の怒鳴る声が響いてくるほど。外面ばっかりよくて、家では威張りちらす「内弁慶(うちべんけい)に外仏(そとぼとけ)」の典型のような親父でしたね。
それでも絵を描くのは好きで、小学校1年生のときに授業で人の絵を描いたときには、同級生はみんな丸とか線で人を描いていたけど、僕の場合は顔の小鼻まできちんと分けて描いていて「あ、みんなと違う」って、そのとき思ったんです。みんなから「よしひろは絵が上手い」と言われて調子に乗って、学級新聞の挿絵とか喜んで描いていました。でも当時は紙がなくてね。親父からはお小遣い1円ももらったことなかったから。学校の先生はきのこなんかを採っていくと西洋紙をくれたんで、それが欲しくてきのこを採りにいったりもしていました。当時は画用紙1枚5円くらいで、大きな画用紙を半分に切って、その1枚にさいとう・たかを先生の『無用ノ介』が刀で斬っているシーンを大きく描いて、なぜか川崎のぼる先生のところに絵を送ったような気がします(笑)。間違って送ったので、もちろんなんの返事もなくて。漫画家になってからお二人に会う機会があったけど、この時のエピソードは伝えなかったなぁ。
「漫画家になる」その誓いを曲げることなく、プロをめざして上京
小学校6年生のときには漫画家になるとみんなに誓ったし、ならなきゃなと思っていましたけど、親父は中学出たらすぐ働けみたいな感じだったんです。親父はずっと馬喰(ばくろう/牛や馬の売買・仲介をする人)みたいなことをしていて、小学6年生のときには6頭だった牛が20頭に増えて、畜舎も新しく造って、そこで働かせるつもりだったんだと思います。それが嫌だったので僕は就職してお金を送るからと言って、愛知県の自動車工場に就職することになりました。
基本給が2万5000円で手取りが1万5000円だったかな。そこから毎月1万円以上、家に送っていましたね。ここで働いているときも常に漫画は描いていましたし、集英社にも読み切りの漫画を1年に2回くらい送っていたと思います。そこでも周囲に「東京に行って漫画家になる」と言っていたんですが、会社が辞めさせてくれなくて「漫画家なんてできるわけない」「高橋くん。ここに長くいたら工場長くらいにはなれるよ」と説得されたんですが、それでも僕は漫画家になりたいと思って、結局そこを逃げ出しました。最後の1ヵ月半くらい給料をもらいそこねましたね。今だとたいした金額じゃないけど、当時の自分にとっては大金でした。後から聞いたら、親父から会社宛に「辞めさせるな」って手紙が来ていたみたい(笑)。
そこを逃げ出して近所の床屋さんで一旦働かせてもらうことになるんですが、そこでも東京で漫画家になると言うと、そう簡単になれるもんじゃないよとみんなに反対されましたね。でも最後はマスターも折れてくれて「じゃあ頑張ってみろ」と、上京を許してもらったんです。
これが17歳の終わりくらいですね。当時は漫画家の住所が雑誌に載っていて、それを見て本宮プロダクション(以下:本プロ)を訪ねていきました。本宮ひろ志先生の『男一匹ガキ大将』を読んだとき、こんな面白い漫画があるんだと衝撃を受けて、この人のアシスタントになろうと決めていたんです。『男一匹ガキ大将』はセリフより先に手が出る漫画で、拳の描写が本当に真四角。いかにも痛いなという感じがして、線でバキーってやるのが痛快でした。悪い子なんだけどお母さんには優しくて、最後は正義のためにやっているみたいな主人公で、この作品にはとても影響を受けましたね。
当時の本プロは六畳二間くらいのアパートで、みんなコタツの上で仕事をしていました。そこに座ってみんなが仕事をしているのを見て「ああ、うまいもんだな」と思いました。雑誌に載っている絵を見ていたときは、正直僕の方が上手いと思っていたんですよ(笑)。昔のジャンプはザラザラした紙でインクのにじみがすごいあったんですよね。でもプロの生原稿は、筆圧がうまく調整してあって全然違いました。本宮先生の原稿は枠からわざとはみ出すんですよ。アシスタント時代、はみ出した線をホワイトで消すのが大変で「先生これ何ではみ出すんですか」と聞くと、「バカ。ここでやめたらよ、迫力がなくなってしまうだろう。一気にはみ出すんだよ」と、そんな風に言っていたことを覚えています。
手塚賞への応募を機につかんだ漫画家デビューのチャンス
デビューのきっかけは、第3回手塚賞への応募でした。本プロのアシスタントのみんなで「週刊少年ジャンプ」の漫画懸賞に応募しようということになったんですが、応募締切まであと3ヵ月しかなくて、結局4、5人いるアシスタントの中で描き上げたのは僕だけ。『下町弁慶』という作品を応募して、結果は選外でしたが、編集者の目にとまったことで翌年「ジャンプ」に掲載されることになり、漫画家デビューを果たしました。その時、手塚賞の審査員だった少女漫画家のわたなべまさこ先生が、自分の漫画への書評で「男の子がかわいらしい」とか、すごく良く書いてくださったんです。それで元気をもらって、翌年もう1冊書いて手塚賞に応募しました。それが『おれのアルプス』という小学生と犬の漫画で、佳作を受賞できました。
本プロにはそんなに長くはいなかった気がします。19歳のときに本宮先生から「おまえは辞めろ」って言われたんです。「なんで? やめてどうするんだ?」と思っていたら「月刊少年ジャンプ」で連載をもたせてもらえることになり、先生が「それでチャンスつかめ」と言ってくださいました。でも「いや俺、無理ですよ」って言ったら「バカ、お前は外でやる人間だ」と言ってくださって。『あばれ次郎』という牛次郎先生の原作付きの作品で連載デビューしたんですが、その時の高宮じゅんというペンネームは、高橋の「高」と師匠・本宮の「宮」、それに奥さんの名前「じゅん」を合わせたものです。「おう、これでいいな」って本宮先生がつけてくれたんですが、先生の名前を下につけちゃって、その頃は何も気がつかずそのまま使ったんだけど、今考えるとすごい失礼なことしちゃったなと思いますね(笑)。
次に連載したのが『げんこつボーイ』。これも牛先生の原作で、この作品は1年続きました。その次の作品も牛先生と組むつもりだったのですが、担当の井口さんと言う方が「髙橋君さぁ、オリジナル出来ないのか?」って言うから取り敢えず1本作って見せました。「いいじゃん、原作付けるより面白いじゃん」と言ってくださり「取り敢えず編集長に見せるわ」と、さっさと戻り編集長に掛け合ってくださり「OKが出たよ」と話はトントン拍子で進んだのです。井口さんは本当にボクの恩人の1人です。
そして始まったのが『白い戦士ヤマト』です。ヤマトを始めたら急激に人気が出て、同時に「週刊少年ジャンプ」で『悪たれ巨人』の連載も始まりました。本宮先生には「欲張って2つもやったら、3ヵ月もたねえぞ」と言われましたが、それでもやりましたね。そこからの2年間は布団で寝たことないくらい、それはもうハードな毎日。でもあの当時は、週刊誌2本とか3本とかやっている漫画家はいっぱいいましたね。その時にペンネームも高橋よしひろにしました。本名の「高」は「はしごだか」なんだけど、当時は「口」の高の方が新しい気がして変えたんです。名前を平仮名にしたのは本宮先生の真似。サインも真似していたかな。
ジャンプ黄金期に、代表作となる『銀牙-流れ星 銀-』の連載をスタート
「週刊少年ジャンプ」に『銀牙 -流れ星 銀-』の連載が始まったのは1983年のことです。実は最初、銀牙の話が犬と熊の戦いだと言ったら、集英社は「今どき古いよ」みたいな反応だったんですよ。当時の担当編集はすぐにはやらせてくれなくて(笑)。でもそのあと僕の担当になった新卒の子が、銀牙を見て「ワンコいいんじゃないですか」と言ったから、ネームを作って編集部に持っていかせました。「編集部の会議にかけたら通りました。やりましょう」ということになって、「いいの? じゃあやろう」ということで始まったんです。
当時ジャンプは20本ぐらい連載があって、年に3、4本の新連載が始まるにあたって、人気の下から4本くらいが連載終了になって入れ替わっていきました。単純に人気のある順。連載当初は人気の銀牙でしたが、10回、20回と数えるうちに人気が落ちてきて、このまま行ったら終わるという状況になりました。それ以前に発表した『白い戦士ヤマト』は犬のセリフなしで成功していたから、犬のセリフはない方がいいねと話してやっていましたが、「このまま終わるんだったら、犬のセリフ入れてみようか」となって、セリフ入れることになったんです。そしたらいきなり人気がポンっと上がりました。結局『銀牙 -流れ星 銀-』の連載は4年間続きましたね。ジャンプで好きな漫画家は誰ですかという人気投票があった時に、高橋よしひろが1位になったこともあって、「そんなことってある?」って驚きましたよ。
今見ると最初の頃の犬の絵はやっぱり下手くそだったなと思いますね。銀牙でちょっとは上手くなって、途中からちゃんと描けるようになった感覚です。アシスタントに任せず自分で描いているとだんだん書けるようになるものですね。やっぱり犬は昔から飼っていたのもあるし、動物の漫画なんかも好きで読んでいたので、犬への興味は尽きずに描いてこられたっていうことかもしれません。
そういえば本プロに入った当初、ほとんど小説なんて読んでいなかったんですが、戸川幸夫さんの『動物文学全集』を全巻買って読んだ記憶があります。おばあさんの犬が出てくる話とか、当時はすごく感動して泣けて、面白かった記憶があるんですけど、何十年も経ってから読み返すとその時の感動とは少し感覚が違ってきていました。なんというか自分の作品を描き続けてきた分、自分の求めるものとの違いもはっきりわかってきたのかな。よく言えば漫画家としての成長なんだと思います。
ファンレターから伝わってきた「銀牙」続編への期待
『銀牙 -流れ星 銀-』の連載が終わって、今度は忍犬たちが活躍する『―甲冑の戦士―雅武』の連載が始まったものの単行本2巻で終わってしまって、その後に描いた刑事漫画の『GREAT HORSE』の連載も終わり、次の仕事がいつ始まるかわからないという状況になりました。それでも3、4人いるアシスタントを食わせていかなきゃならないから、集英社の専属契約を辞めて、小学館へ行きました。学習雑誌の「小学4年生」で、小学4年生の子がプロで活躍する『Jリーグの疾風』というサッカー漫画を描いて、人気はあったんですが残念ながら選手の肖像権とか権利関係が難しくて単行本化には至りませんでしたね。そのほかにもボクシングの『川島郭志物語』や『薬師寺保栄物語』、ラリードライバーの『篠塚健次郎物語』、料理人の『道場六三郎物語』など、スポーツ漫画をはじめ色々な漫画を描きましたが、そのほとんどが単行本化されませんでした。
自分自身でも気に入っている『シオンの疾風』(※『銀牙伝説ウィード外伝』に収録)という読み切りを他の出版社に持ち込んだりもしましたが、「なんで今犬(の漫画)なんですか?」という反応。いじめられっ子の少年・健太と、野良の子犬・シオンとの交流を描いた話で、お母さんが癌で入院していて、そのお見舞いの帰りに車で子犬を轢きそうになるところから物語が始まるんですけど、子犬の母親と自分の母親が重なる心情、泣き虫の健太の成長も描いていて、あれは子どもに読んでもらえるとすごくいい話だなと思っていたんですけどね。
銀牙が終わってからも、ずっと犬の漫画をやりたいというのは頭にありました。でも一過性のブームと考えていたのか、なかなか出版社にはやらせてもらえない時期が続きました。ちょうど『GREAT HORSE』を描いている時期だったと思うんですが、ファンレターで「先生はどうして犬の漫画を描かないんですか?」と、そういう手紙ばっかりが届いて。ああ、みんな期待しているんだなと思いましたね。
そうして、僕が小学館に移り5年程経ってからです。日本文芸社から仕事の依頼がありました。「何だ、エロ漫画雑誌か……?」正直、僕の心の中では日本文芸社はそんな認識しか無く、今思えば大変失礼な思い込みでありました。「週刊漫画ゴラク」の編集者である西島さんとは、半分生きて行くため、「まいった、やむなし」という思いでした。それから3年間は短編を数本描きましたが、その間、エロは一回も描いておりません。しかし、「この人(西島さん)いつかH漫画描いてください、と言ってくるのかな?」と考えていましたね。でも、そういうことは結局ひと言も言われることはありませんでした。
そんな時期を越えて、『銀牙 -流れ星 銀-』の続編となる『銀牙伝説ウィード』の連載がスタートしたのが1999年のことです。2000年におふくろが亡くなったのではっきり覚えていますね。短編集が終わったある日、西島さんがポツリ「先生、次は何やりますかね?」と言うんです。「えっ、まだ使うの俺を……」と、僕は暫く考えて「犬漫画でもやりますか?」と言うと「いいっすね」と、正に売り言葉に買い言葉だった気がします。編集長に掛け合って来ますと言って帰っていったと思ったら、すぐに連絡がきて「許可おりました! やりましょう」となって実現しました。西島さんも当時銀牙を読んでいたらしいですね。
『銀牙伝説ウィード』第1巻の序章「旅立ち」の最後のページのセリフは、今見ても結構いいこと書いてあるなと思います。ここから冒険が始まるという、旅立つセリフが多分いいんだと思う。あれは自分の中で未だに忘れられないセリフですね。ジャンプで連載が終わったときはもう何も考えられなかったけど、このセリフを思い浮かべたとき、これから頑張っていきたい、力を入れてやっていかなきゃという想いにはなりましたね。やっぱり何か溜まっていたものがあったんだろうと思います。
『銀牙伝説ウィード』第1巻より Ⓒ高橋よしひろ/日本文芸社
ウィードの単行本の初版の発行部数は2万5000部ぐらいだったんですけど、毎日部数が足りないっていう電話が来て、1週間ぐらいで40万部くらいになったのかな。編集長がびっくりしちゃって(笑)。最終的には50万部ぐらいで終わったみたいだけど。ファンはみんな待ってくれていたんだなと実感しました。
「お父さんが読んでいた銀牙の漫画を見つけて、ファンになりました」というファンレターが来たり、横手市増田まんが美術館でサイン会をしたときには、車椅子のおばあちゃんがいらして「先生の漫画は素晴らしいです。全国の子どもたちに読ませたいです」と言ってくださって。一緒にいた娘さんが「母は毎週金曜日になると、一人でコンビニにゴラクを買いに行くんですよ」と。「いやあ、それはありがとうございます」と返したんですが、そういうファンの方もいてくださるんですよね。
3種類ぐらいのキャラの性格がうまくかみ合ったときに、ストーリーは面白くなる
これまでの人生で大きな影響を受けた作品は、やはり本宮ひろ志先生の『男一匹ガキ大将』。そして幼い頃に真似して描いていた、さいとう・たかを先生の『無用ノ介』。『無用ノ介』は、漫画家になってからも『―甲冑の戦士―雅武』で侍の袴を描くときなんかにも参考にしましたね。それから、石川球太先生の『牙王』。やっぱり犬の絵がすごかったですね。『のらくろ』の絵とは違って、劇画だから実物にすごく近くて、銀牙シリーズでもジョンを描くときには思い出しながら描いていました。
時々仕事場の壁に貼ってある犬種のポスターを見ながら、どんな犬種がいたかなと見直したりもします。犬の種類でセリフが変わるんですよ。かわいいのもいれば、すごい乱暴そうな犬もいる。僕の漫画にはいくつも性格が違う犬が出てくるから、どうやって考えているのかと質問されたことがあるんですが、それは別に考えたわけじゃなくて、犬の絵からそういうセリフが出てくるんです。漫画って登場人物に3種類ぐらいの性格の違いがあって、要はキャラクターで言えば、細いやつ、太いやつ、ちびのやつとか。それを組み合わせて話がつくられると言われています。この性格がうまくかみ合えばストーリーは面白くなるんです。それを強く感じたのはテレビドラマの『ふぞろいの林檎たち』を見たとき。3人の男の子がいて、毎週3人の話があって必ずそれぞれに引き(ストーリーの続きを見たくなる仕掛け)がある。3本くらいの引きがないと週刊誌の漫画もダメなんだと気づいて、それは意識して作っていましたね。これはほかの漫画家に教えたくないくらい(笑)。
ジョンが死ぬときなんかは、死に際のセリフは書きながら泣いていました。実はうちの実家がある集落は、平家の落人部落だったと言われていて、きっと逃げて来るときに襲われて、仲間同士助け合いながら何とか生き延びてあそこにたどり着いたんだろうなと思うと、その遺伝子がどこか自分の中にもあるんじゃないかなと感じることがあります。死ぬの、生きるのというのが僕の漫画の面白いところなんだけど、戦いのシーンになると何かで教わったわけでもないのに、こういう遺伝子が湧き出てくるんだなと思うときがありますよ。
『銀牙伝説ウィード』第9巻より Ⓒ高橋よしひろ/日本文芸社
これまでの主人公とは違う、卑怯者のキャラクターを掘り下げるところから始まった最新作
デビューから50年以上漫画を描き続けていますが、一貫して込めているメッセージは「愛」と「勇気」です。以前何かで読んだんですが、漫画家の一人が「俺たちはモラルをやぶるのが仕事だ」みたいなことを言っていたんです。それ見てカチンときて(笑)。大人のくせに何を言っているんだって思いました。物書きだからこそ、やっぱり親・兄妹に見られたくないものは描きたくないという気持ちがあって。いい恰好しているわけじゃないけど、そういう大事なモラルというのは大人が持っていなきゃだめだと思っています。
長年漫画家を続けてこられたのは、漫画しかないから。それをとったら「先生」と言われることもなかっただろうし。でもね、やっぱり好きだからじゃないかな。絵を描くのは苦になりませんでした。未だに犬を描くときに、ちっちゃい犬も気に入ったコマは全部自分で描いていますし、下書きも全部やります。アシスタントだとどうしてもペンタッチが違うような感じがして、未だにその部分は任せないですね。
銀牙の最新シリーズ『銀牙伝説ノア』は、初めて銀の血統以外の犬の名前がタイトルにでてくる作品です。ノアは最初のシリーズから久しぶりに復活するキャラクターで、かっこいいキャラがたくさんいる中で、卑怯者で心の弱いキャラでした。シリーズで次は何をやろうと探っていたとき、そういえばあのキャラがどうなったんだろうなと思って、深掘りして考えたのが始まりです。もしかしたら改心してるかもしれないねと、編集者と打ち合わせをしながらストーリーを考えていきました。まあ自分でも、ラストで犬が空を飛ぶとは思わなかったな(笑)。
先日、本宮先生と食事をしたんですが、昔話をしながら「おめえも、よくここまで頑張れたよな。俺と同じ漫画描いてたらよ、20代で終わってたよ」「犬を描いてよかったな」と言っていただけました。さあ、これからこの銀牙シリーズをどうしていこうか……という感じですけど、どうだろう、あと2、3年は続けられるかな。まあでも、描けるうちは描き続けていこうかと思っています。
取材・文=白石さやか
写真=田中和弘