1970年代のオカルトブームを牽引した傑作『恐怖新聞』が生まれた思わぬ経緯とは? つのだじろう先生インタビュー
心霊現象やUFO、超能力──。科学では証明できない世界を描き、1970年代のオカルトブームを巻き起こしたつのだじろう先生。代表作『恐怖新聞』が連載開始から50年を迎える今、漫画家となった経緯や作品が誕生した経緯についてお話を伺いました。
『恐怖新聞』 ©️秦企画
──先生はどうして漫画家になられたのか、どうして漫画の道に進まれたのでしょうか
絵を描くのが好きで、小学校3,4年の時には漫画家になると決めていたけれど、本気で考えたのは中学校2年生のとき。
新宿の家の近くの野球グラウンドで講談社の球団の試合があるっていうんで見に行ったら、その監督が『冒険ダン吉』を描いた島田啓三先生(のちの師匠)だった。 そこで描き溜めた自分の漫画を全部持って、野球の試合中にダッグアウトまで入り込んで「漫画を見てくれ」と島田先生に言いに行ったら「君、そういう用事なら家の方に来るべきだ」と怒られたんだけど、その言葉を「家へ行っていいんだ」と自分勝手に都合よく解釈して(笑)。 それがきっかけで通うことになり、先生からアドバイスをもらえることになったんだ。
──師匠の島田先生からはどういったアドバイスがあったのでしょうか
「その絵では話にならないからデッサンをしなさい」とか、「毎日1個ずつ4コマ漫画を描き、持ってくるなら月に1度見てやる」と。まずはいろはから、ということだね。
だけど、4コマ漫画ってのは難しい。簡単に描けるものじゃなかったよ。それに、当時は手塚治虫先生が『ジャングル大帝』とかを描いていた時代で、 自分も長いものが描きたかったから3、4ページぐらいの長いものも描いて、それを十数枚の4コマ漫画の下に忍び込ませて持って行った。 だけど、先生は4コマ漫画は読んでくれたが長いものは読まずにパーンってぶん投げられてね(笑)。
4コマ漫画のほうも、デッサンができていないとか右手と左手の長さが違うとか色々言われてさ。捨てられた長い漫画を自分で拾ってトボトボと帰るような、中学校から高校までそういう日々だった。
──そこから、どういった経緯でデビューなさったのでしょうか
ある日、お酒を飲んで機嫌をよくしていた先生がたまたま俺の4ページの漫画を見て、「無駄なコマが多い。いらないページを描き直して3ページにしてみろ。それで合格点があげられるようなら「漫画少年」(学童社の漫画誌)を紹介する」と言われたんだ
それから、描いては直すというのを繰り返したんだけど、一年くらい経って師匠に「今の君の力じゃこれが精一杯なのかなぁ」と諦めたように言われて。
一応、「漫画少年」の編集長への紹介状を書いてもらえたので、俺は「島田先生の紹介状があれば連載させてもらえるのでは?」と思い込んでいたが、現実はそう甘くはなかった。毎月、漫画少年を隅から隅まで見ても、(投稿した)自分の作品が載ってる気配が無い。だけど昭和30年3月。当時18歳だったが、いきなり自分の3ページの漫画が漫画少年に載っていたんだ。何の声掛けも連絡もなくね。だからとっても驚いたよ(笑)。
そんな経緯でデビューして、学童社に出入りしていたころに寺田(寺田ヒロオ先生)や藤子(藤子不二雄両先生)に会って、新漫画党っていうグループがあるのをそこで知った。そのころ、第一次漫画党から性格が合うやつで第二次漫画党を作ろうという話になっていて、そのタイミングで自分も新漫画党に参加したんだ。
そしてデビューしてから1年くらい経った頃に、連載が決まった。昭和31年何月だったか。四ツ谷のお岩さんとか浅草寺の生い立ちみたいな、東京にある色んな伝説を探して調べて、漫画にするという企画だった。伝説ってのはどういう風にできてるのかというのを勉強の一環として調べてさ。随分と歩きまわったよ。
──そうして漫画家としてご活躍されていくわけですね。そして、つのだ先生といえば社会現象を巻き起こしたオカルト漫画『恐怖新聞』が代表作ですが、あの漫画はどういう着想で描こうと思ったのでしょうか。
あれは自分から描こうと思ったわけじゃくて(笑)。オカルト自体に興味を持ったのは、昭和33年に両国橋でUFOを見てから。そのとき、「人の知らないものがあるんだ」と思って、そういうものに首を突っ込んでいったんだ。そして日本で不思議なものってなんだろうって考えて、それは幽霊や霊魂じゃないかと思い至った。幽霊の情報なら古いものが沢山あったから、随分と調べたよ。
『恐怖新聞』 ©️秦企画
それで、秋田書店から夏休み企画の漫画の話がきたときに『亡霊学級』という漫画を3作描いたんだけど、そしたら人気が飛び抜けて出ちゃって。 「週刊少年マガジン」(講談社)から声がかかって、『うしろの百太郎』の連載が決まったんだ。
そうしたら秋田書店の壁村(「週刊少年チャンピオン」二代目編集長・壁村耐三氏)ってのがすっ飛んできて、「うちでやったものを講談社に出すとは何事か」と怒ってきた(笑)。
「夏休みの3部作の企画で描いてくれ」と頼まれて『亡霊学級』を描いただけのことなのに……。壁村ってのはわけのわからん、だけど面白い男でね(苦笑)。それで、秋田書店で『恐怖新聞』を始めざるを得なかったんだ。
──そんな誕生秘話があったのですね。そこからあの大ヒットにつながったのは、なにか運命的なものを感じます。
(漫画が社会現象になったのは)たまたまの偶然。UFOを見てから、守護霊や背後霊の世界はあると考えて、それから色々と調べたものをネタに漫画を描いていっただけ。でもいま思うと、そういう世界があるということを普及しろという使命だったのかもしれないね。