作家、作曲家、画家、評論家、法律家…様々な分野で才能を発揮したE・T・Aホフマン。特にその小説が持つ、幻想性は後世に多くの影響をあたえた。現代でもよく知られているバレエ『くるみ割り人形』『コッペリア』はホフマンの小説から生まれた作品である。
『砂男』をはじめとするホフマンの全ての作品を収録した『ホフマン全集』(深田甫/訳 創土社)がついに電子化される。
よくまあ、見つけましたねぇ。だって『からくりサーカス』だって終了したのが10年以上前ですからね。
自分はロックを聞くんですが、メタリカというバンドに『エンター・サンドマン』という曲がありまして、サンドマンとは一体何だろうというところからホフマンの『砂男』に行き着いたんですね。
で、『砂男』を読んでみたんですよ。冒頭のサンドマンの描写で、お母さんが子供に「砂男がきますよ」と寝かしつけるんですね。そこで、パタンって本を閉じて、「なんて不気味な存在だろう」「日本で言うと、どんなに妖怪にあたるんだろうなあ」「早く寝ないと人さらいのおじさんがきますよ…と同じものがドイツにもあったんだ」と考えが広がった。1815年のドイツで書かれたそんな昔から子供に言い聞かせていたんだなモヤモヤモヤモヤ…と想像が膨らんでいったんです。
『からくりサーカス』を構成する元素はいろいろあるんですよ。サーカスだったり、操り人形だったり、錬金術だったり。操り人形の歴史を辿っていくと、やがて操り人形は自動人形に繋がっていくんですね。自動人形を調べていくと、その仕組みを錬金術に求めるものが結構ありまして、錬金術にもつながっていく。
自動人形を扱った本の中では必ず、『未来のイヴ』(リラダン)と『砂男』(ホフマン)には触れていられていたんですが、ホフマンの『砂男』には、錬金術も自動人形も出てきて、それによって狂わされていく男が主人公…。
これこそ自分が描いてみたかった世界だなと思いましたね。しかも主人公が狂気に陥っていく話ですから、自分にとってはすごく魅力的だったんですよ。
いや、これはとても個人的な感想ですが、ゾクゾクするんですよ。
あと、ホフマンは、キーワードがかっこいいですよ。アンゼルムスとか、パウルマンとか、ドロッセルマイヤーの名前がイイ!ってなんか、薄っぺらい感想でごめんなさい(笑)。
漫画家にはきっと起爆剤になるような、燃えるための種火が必要なんですね。
それが、自分の場合は、漫画やアニメと全く違う場所での読書だったりするんですね。しかも、なるべく曖昧なもの、はっきりとしてないものがよくて、ホフマンの作品にはそれがあるんですよね。
あるんですよ、って言いながら、自分はホフマン作品全体の10%にも満たない分しか読んでませんからね。『黄金の壺』とか『くるみわり人形』とか有名な作品しか読んでない。
読んでないのですが、ホフマンの作品には何か、ハッキリとしてないけど心にくるものを感じるんですね。ぺったりと張り付いた、頭から去らないイメージと言うか。
上手く言えないんですが、なにかこう、かさぶたを引っ掻くような、なんか痛痒いというか。「ほらほら、そんなとこいじるんじゃないよ」ってところをいじられているような感じがするんですよ。その “感じ”だけが、後に残るんですよ。だから何回も読んじゃうんですよ。
少年漫画家ってね、読者がわからないことがないように、「結局、何があって、誰が悪かったのか、どう終わったのか」をはっきり描くように訓練された漫画家なんですね。少年漫画家である自分は、全部が白日のもとに晒されている世界に生きていないといけない。ホフマンが自分にどうして刺激をあたえるかというと、自分がやっちゃ駄目だなって思っていることを「ほーらほらこんなのどう?」って、差し出してくれるんです。
子供が背伸びして、大人が書いた小説を読んで「これってどういう事なのだろう、なにかの例えかな、それとも、自分が見落とした描写があるのかな」と考え込むような、ホフマンからなぞなぞを出されたような感じでね。
「カーテンが揺れていて向こうに何かがいるんだけどよく見えないから、めくって見てみたくなるなあ」みたいな。
カーテンが揺れているから、いろいろ想像するじゃないですか。それがイメージの喚起にすごく貢献するんですよ。
ホフマンは間を空けて、ゆっくりアタマの中でころがすような感じで読んでいく本じゃないかと思いますね。一気に読むのではなくて、「そういう気分」のときに読みたい。「そういう気分」っていうのは…、何でしょうね。
本を読む人は特にそうだと思うんですけど、自分の世界で考えをころがすのって好きなんじゃないかと思います。いいシーンや感銘を受けたシーンで本を閉じて、「あの登場人物どうだったんだろう」「作者は何考えていたんだろう」と、本から離れたところで、自分の考えをころがす。そうやって楽しむ時間が全部読書なんですよ。
ホフマンって転がしがいがありますよね。わからないとはいえ、全くとっつきづらいわけでなくて、わかるところから、例えば「機械人形に恋した男の気持ちはどんなんだろうなあ」から入っていける。
ホフマンの作品には日本人がみたことのない世界が描かれているんです……って、当たり前ですよね、ドイツの方ですからね。
けれど、昔のドイツでも変わらず、人間は人間で、その心理状態変わってない。ちゃんと不思議なもの見たときは不思議だと思うし、素敵な女性と会ったときは恋をする、というような共通項はあって、日本人だからかなあ、なんかね、異文化の幻想に触れると、「他の国の人もこんなの読んで喜ぶんだ、俺も好き!」みたいな気持ちにね、なりますねえ。
小説って、すごい素敵だと思うんです。読者の心に新しいものを喚起させる起爆剤として、小説は他の何にも替えがたいんですよ。漫画って、絵という記号を読者に押し付けて、その記号でもって物語を読んでもらうんですよね。たとえば、『うしおととら』があったとしますね。読者は主人公・うしおがどういうカオをして、どう動いて、どういう仕草をするかはもう自分の漫画絵があるから想像しないでいい。小説って全部を想像することになるんですよね。
読者ひとりひとりが自分で想像する。均一なものを伝えているわけではないところが、いいなあって思う。
これはちょっといやらしい言い方になってしまうんですが、アシスタントにはよく言うんです。「アニメとか漫画から、影響を受けるなよ。影響受けるなら小説の世界観から影響受けろ」と。「小説から頭に浮かんだイメージは君たちのもんだろ」って。
イメージを喚起させて、どれだけ広くて読者の見たことの無いイメージを与えられるかが勝負の我々マンガ家にとっては、カーテンの端をのぞこうと、想像を膨らませてみることはすごく糧になるんです。
どうしても作り手側みたいな言葉になっちゃいますけど、作家って「引き出し」を作るのが大変なんですよ。人間って保守的だから、自分のスキだったもの、自分の手近なところばかりが厚くなっちゃう。
幻想小説で、それも外国のものに触れることは、引き出しが一個増えるということ。しかも、よくわからないですから。わからないから何回も思考して、どういうことか考えてみる。わからないものをわからないなりに想像して、自分のなかで、ハッキリ答えを出さずにしまっておくと、熟成して新しい「引き出し」になるんですね。
作品を創るときには、強引に違う世界に自分を連れて行ってしまわないとダメなんです。その意味で、本当にホフマンは『からくりサーカス』のときにエネルギーを与えてもらいましたね。こんな知らない世界があったのかって。気をつけないと、全部手近な世界で作ろうと、漫画家はしちゃうんですけど。
特に俺は人間がちっちゃいから、手近なところにあるもので、自分が好きだったもので物語を組み上げていきがちなところがいきなり、広がったんです。
「砂男」を読んでもっとハッピーエンドをみたくなったのかもしれませんね。どっちかというと、現代の読み手が求めているものは、機械人形も心が持てるんじゃないかなという理想ですよね。
昔のホラー映画、『フランケンシュタインの怪物』や『未来のイヴ』は、その全てが、機械人形はあくまで機械であるとして、物語は機械人形を見た人間を書くことに終始しているんですね。それは、リアリズムとして納得はしているんですが、でも、可愛い娘の人形がいたら、その人形に自分たちの方を向いてくれよって思っちゃう。それが、『鉄腕アトム』以降の手塚治虫先生が目指したものだと思うんですね。
でもそれは、俺が視聴者の欲望に応えようとエンターテイメントが循環して、自家中毒起こした果てのものかもしれませんけどね。
「機械は部品の集合体で道具だからカッコイイ」と、「機械にも人格があるように感じる」という2つの反応があると思うんですよ。人格があるように感じているのが、自分とか手塚先生がやろうとしていた、機械人形に意識を芽生えそうとするアプローチ。
機械に軽く意識が芽生えるぐらいではなくて「機械人形がこれだけのことを見て学んで、ようやく、人を理解できるようになる」というテーマです。
『からくりサーカス』で言えば、コロンビーヌや、フランシーヌ人形がそうですね。フランシーヌ人形に人間の赤ちゃんが生まれるところを見せて、「赤ん坊はこんなに苦労して生まれてくるんだ、だったら簡単に壊せって言っちゃいけないわね」って変わらせたい。それを、モチベーションにして描いたんです。
簡単に心変わりするような機械人形はいやなんですよ。
その気持ちは、このホフマンで読んだ、機械人形の座りの悪さから生まれたんだと思います。
恐ろしい“モノ”が変わるとしたら、どれだけ機械人形自身が考えなければいけないのかを描きたかったんですよ。
“機械が持つ命”を、昔の人はどう考えたのか知りたくて、いろんな作家の書いたものを読んでいたんです。その中で、ホフマンが一番クールだったんですよね。
ちょっとこれは想像なんですけど、ホフマンが「わあ、人間って薄っぺらー」って思っているように感じるんですよ。「外面がきれいだったら、無表情でも好きになっちゃうんだ」その上で、「でも中身はこうなんだぜ」って、最後にバラバラにしちゃう。
それって、人間の薄っぺらさが白日のもとに晒されてるんですよ。
そこで考えたのは、漫画だろうと、アニメだろうと、結局は線で描かれた記号ですからね。それに対して、みんな心が動くわけですよ。俺なんか『めぞん一刻』の管理人さんに惚れてますからね。もう、ほんと好き(笑)!
記号で描かれたものに、人って心を寄せることができるんだってことを理解すると、ホフマンに近づいたような気がしてくるんですよ。
キャラクターの出来不出来ではなくて、「なぜ、人の心が動かされるのか」と考えるのは非常に興味深いですよね。今のアニメで、「キャラクターが皆おんなじ顔じゃないか」とか、「テンプレートじゃないか」とか言われているんですけど、でも視聴者はキャラクターを好きになる。そこには、何か心が欲しがっているものが存在するんじゃないかと思うんですね。欲しがっているものは、人それぞれ違っていてね。
そのキャラクターに心惹かれる気持ちって、『砂男』にでてくるナタナエルに近いのかもしれませんね。ナタナエルの幼馴染のクララはイイ女に書かれているんですね。それでも機械人形のオリンピアに惹かれてしまうのは、クララのような、しとやかな女性には無いものを求めていたからで、その衝動はどうしようもないように思えます。
オリンピアはナタナエルの言っていることを否定はしない。機械人形ですからね。それって、ひょっとしたら、都合のいい漫画の女性のキャラクターかもしれません。でもオリンピアは、結局引きちぎられてバラバラにされて。ナタナエルが手に入ったのは目ン玉だけ。
「この目はただの物じゃないか。これを好いていたのか俺は」ってナタナエルは自分と向きあっちゃったんでしょうね。
結局ね「作り物に恋をする」という罪悪感みたいなものって、ホフマンの時代はきっと今ほど軽くはなくて、狂うくらい罪悪感があったかもしれない。
「フジタ、お前、何言ってんの。違うよ!」って言われるかもしれないけど、でもこうやって、いろんな想像が生まれてきますよね。曖昧模糊としたものの中で心を遊ばせる楽しさが、ホフマンの小説には詰まっているように感じますよ。
※文中に登場する「砂男」は『ホフマン全集 (3) 夜景作品集』、「黄金の壺」は『ホフマン全集 (2) カロ風幻想作品集2』、「くるみわり人形」は『ホフマン全集 (4-1) セラーピオン朋友会員物語3』に収録されています
藤田和日郎(ふじた・かずひろ)
1964年生まれ。北海道出身。1990年より連載を開始した『うしおととら』で人気を呼び、その後も『からくりサーカス』『月光条例』『黒博物館スプリンガルド』など多くの作品を発表。現在は「週刊少年サンデー」で『双亡亭壊すべし』を連載中