デビュー50周年、『ベルサイユのばら』45周年、おめでとうございます。
――最初にマンガをお読みになったのは何歳ぐらいのことですか?
池田覚えていないぐらいだと思います。小さな頃から、よく絵を描いていましたね。大概のご家庭では、マンガなんか描いちゃダメとか、読んじゃダメとか言われていたというのを聞いてはいましたが、うちは割と好きなことをさせてくれました。家の前の地面に「ろうせき」で落書きしたり、母が作ってくれた「落書きノート」に絵を描き散らしていました。
――マンガを描くのが好きになると、仲間を作ってマンガを描いたりしますが……。
池田いえいえ、そういうことは一切ないです。私はとにかく人と会うのが苦手で……。大学(東京教育大学。現・筑波大学)に入って、私は絶対会社勤めに向いていないので、そうしないで済む方法がないかと考えていましたね。父に「学費を1年間分しか出さない」と言われていたので、色々なアルバイトを経験しました。その時、人付き合いが苦手で、毎日職場に通うのも絶対できないと分かったのね。
――アルバイトのひとつがマンガを描くことだったんですね。
池田そうです。マンガが人と会わずに家の中でできる仕事だったからです。初めてペンを持ちました。あの当時は手塚治虫先生の短編とか、牧美也子先生、水野英子先生の、自分が読んでいたものを参考にしました。手塚先生では『つるの泉』ですね。うちは少女マンガ誌は買ってもらえなかったので、友達のところにあったものとかを読んでいました。
――貸本マンガの世界はご存じでしたか?
池田はい、貸本屋さんにはよく行きました。1冊借りて5円でしたね。お小遣いをもらっていなかったので、おばの所に泊まりに行き、こっそりお金を貰ったりした時とかですね。
――1967年、講談社の「週刊少女フレンド」増刊4月11日号に載った『バラ屋敷の少女』で商業誌デビューされています。デビューまでには持ち込みも経験されたのですか?
池田64枚のストーリーマンガを描いて持ち込みました。まず、集英社に行きましたが「全然話にならない」ということで講談社へ行ったら、「見込みがあるかもしれないから、少し勉強しなさい」と言われて、貸本出版の若木書房を紹介してくださいました。なんとか暮らしていけるかなという感じで何冊か描いています。(「ひまわりブック」シリーズ。『由紀夫くん』など―編集部・注)
――『ベルサイユのばら』を描こうと思ったきっかけは何でしょうか。人気が出なかったら連載を止めてもいいと編集部に言って始められたらしいですが…。
池田高校2年生の頃、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』を読んで、いつかアントワネットの生涯を描きたいと思っていました。特に歴史ものを描こうという気持ちはありませんでした。ただ舞台がフランス革命だったというだけですね。大きな広がりを見せるという思いはあっても、当たらなければすぐ打ち切りって言われちゃいますから(笑)。
――壮大なテーマを描かれているわりに、連載期間はそれほど長期ではありませんね。
池田2年未満ですね。オスカルが死んでから10週間と決められていましたから。オスカル誕生のヒントは、7月14日に国王軍を率いて市民に応えるフランス衛兵隊の隊長を描きたかったのですけれどもね。男の人を描く自信がなかったので女性にしましたけれど……。
――「ベルばら」には素晴らしいセリフが散りばめられていますね。キャラクターに合ったセリフを作るのにご苦労があったのですか?
池田いや、特にそういったことはありませんでしたね。それで苦労するようでしたら、マンガ家になっていなかったと思います。昔から物語を作るのが好きだったみたい。エピソードで困ることはありましたが、ネームで困ることはあまりなかったですね。
――アンドレとオスカルは最後に結ばれ、オスカルは死んでしまいます。読者は大騒ぎになったと思います。
池田どうなんでしょう。ただ、オスカルが死んだ後は、ファンレターにカミソリの刃が入っていたりしました(笑)。(「ベルばら」のヒットの後)結構叩かれましたね。要するに、マンガは害毒なんですね。漫画のせいで、子どもが本を読まなくなったとか言われました。「ベルばら」のヒットで、私は大人たちからの攻撃の矢面に立たされました。
――でも、「ベルばら」を読んだことで、子ども達はフランス革命という歴史的事実を学んでいます。
池田そんなことを大人は考えない。マンガという害毒が世の中に広がるのはけしからん、ということですね。大人っていうのは皆、新しく生まれる文化に対してはそういう態度だと思いますよ。マンガそのものに対しても、海外で認められたから認められるんですよね。日本人の大人は文化に対して自分の価値観をなかなか持っていないですね。
――マンガがローマ字の「MANGA」になって初めて政府も動く。明治時代のアーネスト・フェノロサみたいなものですね。海外の人が日本の文化を認めたことで、日本人も認識する。
池田でも、ものすごく遅いですね。他の国、たとえばヨーロッパでは政府が認めて、それに対して支援したり、マンガ家を育てたりしている。日本はどうも経済効果があるらしいと分かってからですから……。
――クールジャパンということですか。ところで、「ベルばら」の人気を認めたのは、宝塚歌劇団が意外に早かった。この時はどういうお気持ちでしたか?
池田嬉しかったですね。忙しくても、初日くらいは観に行かないと、と思って行きました。連載当時は忙しく中々時間が取れなくて、アニメも実はあまり観ていないんです。さすがに初回だけは観ましたが……。
――ファッションひとつとってもご苦労があったと思います。「ベルばら」でロココ時代のファッションやポンパドール婦人の華やかなスタイルを知った読者も多いと思います。
池田でもね、随分変えてあるんですよ。当時の日本人はまず、「ベルサイユってなあに」というレベルでしょう。貴族が穿(は)くいわゆる※キュロットズボンも知らない。だからオスカルには長いパンタロンとかブーツを穿かせていました。今でこそ当たり前になっているんでしょうけれど、「ショコラ」という言葉とか……。
当時のフランス衛兵隊の軍服って、もっともっとダサいんですよ。だから、オスカルにはナポレオン時代の軍服を着せましたね。ただ、そうやって苦労していても、学者の先生とかにはここが違う、あそこが違うって言われる。何か鬱陶しかった(笑)。そういったところばかり見ている人がいるんですよ。でもね、やっぱりマンガってひと目でこれは何だって分からないといけないじゃないですか。完璧に歴史ものを描いているわけではない、歴史を舞台にした創作と断り書きを入れてもダメですね。
資料はいっぱいありましたが、そのままは描けない。アントワネットと国王の夫婦生活とか、あまりに複雑な経済問題とかは、小学生から中学生の少女たちにはね。
※キュロット=17世紀後半から18世紀まで西欧貴族男子によって着用された主要な半ズボン
――そもそも、マリー・アントワネットのどこに惹かれたのですか?
池田すごく無邪気で、愚かで、何もしらない女性が、ああいう苦難の中で人間として成長していく過程ですかね。アントワネットはフランス革命が起こってから母国のオーストリアに助けを求める暗号の手紙を書いている大悪人なのに、何で善人に描いたんだと言ってくる読者もいます。でも、捕われの身になったら家族を守ろうとするのは普通のことでしょう。私は誰が悪人で、誰が善人であるかとか決めつけたりしないんです。作家は皆そうだと思うんですけれど、読者になるとそうはいかないんですね(笑)。
――初めて「ベルばら」に接する読者には、どのように見て欲しいとお考えですか?
池田読者はさまざまですからね。子ども時代に見る、大きくなって恋愛をしてから見る、あるいは結婚して母親になってから見る、それぞれ見所が違うと思います。この間のサイン会で、「ベルばら」をおばあちゃんに見せてもらったという子が来ていて、私に会えて嬉しいと泣いていました。現在『ベルサイユのばら エピソード編』を執筆しています。幅広い世代の読者に読んで頂ければと思います。
――ありがとうございました。これからのご活躍を楽しみにしております。
池田理代子(いけだ・りよこ)
1947年12月18日生まれ。
漫画家・劇画家・声楽家。1967年、東京教育大学在学中に漫画家デビュー。1972年、『ベルサイユのばら』が空前の大ヒット。以降、『オルフェウスの窓』『栄光のナポレオン エロイカ』ほか多数の名作を生み出す。1995年、東京音楽大学声楽科に入学。現在は声楽家として活躍する傍ら、『ベルサイユのばら エピソード編』を「マーガレット」(集英社)で不定期連載中。
2009年、日本においてフランスの歴史や文化を広めた功績に対し、フランス政府よりレジョン・ドヌール勲章を贈られた。
公式ホームページ:http://www.ikeda-riyoko-pro.com
©池田理代子プロダクション
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