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どおくまん特集 SPECALインタビュー1

超肉食系猛爆ギャグマンガ『嗚呼!!花の応援団』が連載開始してから、今年は40周年のメモリアルイヤー。プロフィールは非公開・インタ ビュー取材も稀な、どおくまんの素顔に迫りました!!  取材中にはどおくまんプロの小池たかしや、みわみわも参戦しての貴重なマル秘レポートをお楽しみください。(敬称略)
※取材は2015年11月・大阪で行われました。

SPECALインタビュー

◆漫画家になったいきさつを教えてください

いきさつも何も、たまたまですわ(笑)。
漫画家になろうと思ったこと自体、ほんま偶然の産物みたいなもんです。他の先生方のように子供の頃から漫画家になりたかった訳やなかったから。
漫画は読みましたよ。子供の頃に夢中になったのは、横山光輝先生の『伊賀の影丸』とか『鉄人28号』やね。『鉄人28号』は『鉄腕アトム』より好きやったなあ。あと貸本やったら、さいとう・たかを先生の作品やね。その中でも『台風五郎』がめちゃめちゃ面白くて。毎回楽しみやったなあ。
けど、それからしばらく漫画から離れて、高校時代まではスポーツ一辺倒でした。そない考えたら、特別漫画が好きと言うほどでもなかったね。
ブランクがあって、再び読み始めたのはつげ義春先生やみやわき心太郎先生の作品でした。それでも、あくまでもファンとして楽しんでいただけですね。ただ唯一、悪い意味ではなく「よぉ、こんな漫画描くなあ」とびっくりしたのは、山上たつひこ先生の『喜劇新思想体系』かな。
大学にも科目名に“思想体系”ってつく授業はありましたけど、そういうものとは全く次元が違うというか超越していて(笑)。あんなにぶっ飛んだ内容の漫画を読んだことがなかったので、読者として一度も感じたことがなかった衝撃をガツンと喰らいましたねえ。
そんな僕がなんで漫画家になろうと思ったのか。実は18歳の時に「サンデー毎日」を読んでいたら、突然“賞金1000万円”の文字が目に飛び込んできたからなんです。
どういうことかとよく読んでみたら、「サンデー毎日」が何を思ったのか漫画を募集していて、その大賞賞金が1000万円だったんです。こんな太っ腹な漫画賞、今の漫画誌でもなかなかないでしょ。今のお金にしたら1億円くらいの値打ちがあったんじゃないですかね。
こらもう、何としても自分が獲らなアカンと(笑)。プロ・アマ問わずって書いてあったのも、ハートに火を点けてくれました。「よっしゃ、相手にとって不足はない。負けへんでえ」てなもんですわ。けど、いざ描いてみようと思ったものの、描き方がさっぱりわからない(笑)。そりゃそうですよね。とりあえず紙が要るので画用紙を買ってきて、何で描こうかと考えた末に墨汁と筆を用意したんです。
描き上げましたよ、枠線もセリフも全て墨汁と筆で(笑)。処女作は『人形の疑惑』というタイトルで、内容は完全犯罪を描いたサスペンスです。コピー機がまだ一般的ではなかった時代なので、原稿は写真に撮っておきました。今でもどおくまんプロのどこかに、ネガが残ってるんとちゃいますかね。
原稿はええとこまで、いくんちゃうかなっていう自信は結構ありましたね。ただ、あの頃はまだ漫画家というとマイナーなイメージが強かったこともあって、投稿したことは周りの誰にも言いませんでしたけど。
審査員の先生はビッグネームが揃ってましたよ。たしか、さいとう・たかを先生や石ノ森章太郎先生など、そうそうたるメンバーでした。それは、ものすごい数の応募作があったのですが僕はなぜか「一次選考くらいは残って当たり前」なんて思っていたものの、二次にも三次にも名前が載っていた時は「ほんまに一千万円獲れるんちゃうか」と、もらう気満々でいましたね(笑)。
最終的に僕の描いた『人形の疑惑』はベスト20ぐらいの評価やったんかなあ。夢見たものの結局、大賞は該当者なし。1000万円は誰ももらえなかったんで、まあええんですけどね(笑)。
それでも賞は逃したとはいえ、手応えは感じましたね。軽いジャブみたいなもんがここまで評価されるんやったら、本腰を入れてやってみようと。ただ「1000万円」の漫画賞はその年だけで終わり(笑)。
その後2作目を大手出版社某少年漫画誌の懸賞漫画に投稿したんです。そしたらなんと佳作を受賞。受賞作は何ページか、本誌に掲載されました。ついに賞金も、もらいましたよ。

◆いよいよ漫画家デビューを目指すわけですね。

僕はその気でおったけど、思っていたよりラクやなかったね(笑)。
編集者からも「担当になります」と連絡をもらい、これはもう「本気でやらなアカン」と。2か月ぐらい寝る間を惜しんで、50ページの漫画を仕上げたんです。
ところが待てど暮らせど担当からはなしのつぶて。「どないなってんねん」って話ですよ(笑)。仕方なしに、こっちから「原稿を送ったのに、どうして連絡してくれないんですか」と聞いてみたら、担当から「長すぎる」と怒られて。
「知らんがな。それやったら、先に言わんかい」って感じでしたけど、その頃の僕は大学生で、漫画に集中するために下宿を借りました。即席ラーメンを山ほど買い込んで部屋にこもり、1年間一心不乱に10本(約300ページ)たった1人で漫画を描きましたね。
原稿を目いっぱい詰め込んだトランクを持って、意気揚々と(担当者のいる)編集部に向かいました。受付から編集部に連絡してもらい、担当さんに「ここで待ってますから」って言ったら「上まで来い」と怒鳴られて。
どうして怒られたのか、よぉわからんままトランクを開けて、担当さんに「よろしくお願いします」と原稿を渡しました。そやのに、その担当さんはパパッと目を通すだけで、まったく読まないで、他の編集さんと喋ってばかり。
「なんかイヤな感じやなあ」って思ってたら、急に「こんなもん使えるか」って原稿を床に投げられて。あの時はさすがにムカつきましたよ。でも「ここでキレたら終わりやぞ。怒ったら負けや」と、ぐっと我慢して原稿を拾い集めました。
今思えば、もしもあの時「何さらすんじゃ、この野郎!」なんて手を出してたら、おそらく『嗚呼!!花の応援団』はおろか、デビューすらできなかったでしょうね。
もちろん、ショックというかダメージは、めちゃめちゃ大きかったですよ。その大手出版社を出て、川の近くで「何しに東京まで来たんやろ」と、途方に暮れたことは今でも忘れられません。
そやけど、このまま大阪には帰れません。ちょうどその頃、集英社で「少年ジャンプ」が創刊されたばかり。多くの新人を起用していたので、僕にもチャンスがあるかもしれんと、気を取り直して少年ジャンプの編集部に向かいました。トランクを開けて「持ち込みに来ました」と伝えると、編集さんから「えっ10本もあるの?うーん、そんなにたくさん見れないねぇ。じゃあ君の一番の自信作見せて」って言われて。
その時に見てもらったのが『花田秀次郎』です。某少年漫画誌の意地の悪い担当には投げ捨てられたけど、僕なりに自信があった。ジャンプの編集さんはそれこそ丁寧に、きちんと目を通してくれました。読み終わってすぐに「来月の『月刊少年ジャンプ』に載せるから」って言ってもらえて、デビューが決まったんです。

◆漫画家・どおくまんの誕生ですね。その時にどおくまんプロを結成したのですか?

どおくまんは一人やなくて、複数と言うかユニットで使っているペンネームやと思ってる読者は意外と多いんですよね(笑)。けど、どおくまんは僕一人。
大学時代の友達・小池(たかし)、僕の弟の太地(大介)、弟の友達のみわみわの四人が初期のどおくまんプロのメンバーですわ。
どおくまんプロの活動を始めたきっかけは、一人で漫画を描くのはしんどいという物理的な問題が全てです。「月刊少年ジャンプ」での連載もはじめから弟の大地大介が手伝ってくれましたしね。そしてみわみわや小池も。すごく心強かったですね。

●小池たかし 僕らは大学の漫研で知り合ったんだよね。
そうそう、その頃の小池は「ちょっと漫画見せてよ」って頼んでも、扉とその次のページしか見せてくれない(笑)。

●みわみわ そんなん当たり前やん。盗まれたら困るもん(笑)

●小池たかし ちがうちがう、どの作品も2ページしか描いてなかっただけやで(笑)

Gペンもスクリーントーンも小池が先輩。小池から白いスクリーントーンを見せてもろた時は、何に使うんやろって思った(笑)。
最近、映画『バクマン』を観て、昔の休みはおろか、寝る暇もなかったキツい時代を思い出しましたね。最盛期はうちのプロ全体で月産550枚でっせ(笑)。そのうち僕一人で250枚。よぉやってたなあって思いますわ。ホンマ、バカとしかいいようがない。
編集者も情け容赦ない。締め切り前になると栄養ドリンクを持って、新幹線で大阪に来るんです。そのまま原稿がアップするまで張り付かれるんですから、たまったもんやない。
ある時、断りきれない仕事が入ってきて。それがなんと月2回連載の毎回50ページ。さすがに間に合わんと思って、ストーリーとセリフをカセットテープに吹き込んで……。

●小池たかし それを渡された僕がコマを割って、原稿を仕上げたんですよ。それが「京都札ノ辻下宿」「つっぱり天神中」も「最初の1本しかかかわれませんがいいですか」と断って1本目だけボクがプロットを作りました。あの頃はほんまに、毎日が綱渡りの連続で。もしも僕一人だったらと思うとゾッとしますね。

売れはじめた時、プロダクション形式での仕事のやり方をもっと勉強せなと思って、さいとうプロ、ダイナミックプロ、虫プロを見学させてもらったことがあるんです。その時は、集英社がハイヤーを用意してくれて。
さいとう(たかを)先生は〆切直前の忙しい中、わざわざ立って挨拶して下さって。さっきも言いましたけど『台風五郎』のファンだったので、嬉しかったですね。しかも手には修正用のホワイトを握っておられて。「僕はホワイトなんか使ったことないなあ。さいとう先生は仕上げまでていねいにチェックされてるんだなぁ」なんて感心してましたね(笑)。
永井(豪)先生は自室のソファで寝てはったのに、僕らがズカズカと入ってきたものでわざわざ起きてきて相手をしてくれはったんです。手塚(治虫)先生とはお昼時だったので、ランチをご一緒させていただいて。やさしい方でしたよ。
他愛もない話しかでけへんかったけど、確か「アメリカにアニメーションを観に行くんだ」っておっしゃってましたね。今となってはええ思い出です。
◆『嗚呼!!花の応援団』の連載についてエピソードを。

『嗚呼!!花の応援団』の第一話は連載が条件で、「漫画アクション」に読み切りで掲載されました。背景からその他大勢に至るまで、全て僕が描いてます。これから始まる『嗚呼!!花の応援団』は、こういうふうに描いてほしいという見本みたいなもんですね。
第一話に主人公の青田赤道が出てこないのも、連載想定だからできたこと。計算ずくでそうしました。キャラクターは全員僕が創りましたが、実作業は久本みすずと薬痴寺は小池が、女性のキャラクターはみわみわが担当しました。
『嗚呼!!花の応援団』は読み切り連載やったけど、ほとんど何もない状態からスタートしたので完全に自転車操業(笑)。応援団らしいというか、応援団ならではのネタがあればストーリーは創れるので、普通のストーリーになってしまわんように。そこが一番気ぃ遣いました。
頭で考えてどないかなるネタとちゃいますから、当時は連載当初から柱とかコマの余白に「応援団体験談募集」って、よぉ書きました(笑)。そやから現役の応援団員やOBから、毎日のようにネタを送ってきてもろて。中には「名前は絶対に出さんといてな」って書いて送ってくれる人もいましたね。そない考えたら読者に愛され、支えられた作品やったんとちゃいますか。
現場は修羅場でしたよ。原作担当とか作画担当なんて言ってられへんから、太地(大介)にも作画を手伝ってもらいました。

●小池たかし あの頃は夜も昼も関係あらへん(笑)。いつ寝てたんやろっていうぐらい漫画ばかり描いてたなあ。

●みわみわ そうそう。意識が朦朧となって、ハイになって来て(笑)。“ちょんわ、ちゃんわ”とか“ちゃんちゃこりん”なんかは、そんな時に誰かからポロっとこぼれ出た言葉やったね。

「~ねんのねん」なんかは、みわみわが言い出したんやったっけ。それを小池が気に入って使い始めたんとちゃうかったかな。ちょっとしたことで一人がプッと吹き出すと、もうアカン。描いていても笑いが止まれへん(笑)。
そやけど、今思えばガクランは黒一色なんでずいぶん助かりました。スクリーントーンなんかいらんかったから。トーンを一枚も使うてない漫画なんて、当時でも珍しかったんとちゃいますか。
『嗚呼!!花の応援団』がどーんと話題になって、すぐに映画化の話が舞い込んできました。なんや訳がわからんまま、にっかつの人から「ここに判子お願いします」みたいな感じで、とんとん拍子で話が進み、あとから担当さんに「勝手なことされると困ります」って怒られましたわ(笑)。  映画化だけでなく舞台化もされましたけど、どっちも漫画とは別モノという感じやったね。ただ、映画はいっぺん自分が監督してみたかった。映画と漫画はリンクする要素がめちゃめちゃ多いんで。
ふと気がついたら、どおくまん=『嗚呼!!花の応援団』みたいなイメージになりましたけど、自分が描く作品は全て“おもろい”という自信がありましたね。生意気かもしれんけど、実力で人気を勝ち獲ったと思てます。『嗚呼!!花の応援団』は百回ぐらいで終わるつもりやったんですが、その時かて「次もいける」って確信してましたもん。

◆ヒットの予感はご自身の中にありましたか?

もうじき漫画家としてブレイクするぞっていう予兆は『嗚呼!!花の応援団』の連載を始める少し前から感じてましたね。集英社でお世話になっていた頃はまだ、2カ月に1回のシリーズで当然、職業としてはなりたたず、昼間はヘルメットをかぶって実家の工場で働いてたんですよ。「このままじゃアカン」と思てた時に、秋田書店の『がきデカ』や『ドカベン』、『ブラック・ジャック』を手がけた名編集長の壁村さんから工場の事務所へ突然、電話があって「『月刊少年チャンピオン』で描かないか」と声をかけていただいて。
嬉しくて「やらせてもらいます」ってすぐその場で新連載が決まりました。そして「月刊少年チャンピオン」で『暴力大将』がはじまったんです。
この連載から喫茶店の2階に、ぜいたくにも部屋を借りて漫画を描くために出社するという、プロダクションの真似事みたいなことをやりだしたんですが、月1連載なのである時、ヒマで漫画を描かずにみんなで麻雀をしていたら、突然壁村さんが部屋に入ってきたことがあって(笑)。そらもう、びっくりするやら慌てるやらみたいなこともありました。
暴力大将の2作目を送った時、壁村さんからは電話で「何じゃあ、この漫画は!」って、こっぴどく怒られたことがあって。家族には「1年やって飯が喰えんかったらマンガはやめる」と豪語して、退路を断って始めた連載やのに、アンケート結果が伸び悩んで、ジリ貧の状態やったからね。  それでもそんな時、やはり突然、少年画報社の「ヤングコミック」から、読み切りの依頼が来たんですわ。その時に描いた作品が、ターニングポイントとなった『黄金探偵』でした。小作でしたが。
『黄金探偵』は自分の手応えと周りの反響が初めて一致した作品やったね。『黄金探偵』が載った「ヤングコミック」が発売されると同時に、ドカーンてな感じでいろんなとこから仕事の依頼の電話が下の喫茶店にジャンジャンかかってきて(笑)。編集が東京からどんどん会いに来ましたよ。
「少年チャンピオン」に『暴力大将』を連載し、不定期に『黄金探偵』を描くという生活を2~3か月続けながら、みんなと「そろそろ週刊連載やろか」という話をしてました。いつの間にか描く雑誌を自由に選べる立場に立っていましたね。
「漫画アクション」に決めたのは、当時モンキー・パンチ先生の『ルパン三世』、『子連れ狼』、『同棲時代』などが載っていて、一番勢いのある雑誌やなあと思ったから。
確か『嗚呼!!花の応援団』の連載が始まったあと、長谷川法世先生の『博多っ子純情』が始まったんやなかったかな。とにかくめちゃめちゃ豪華なラインアップやったけど、逆に「先輩がなんぼのもんじゃい」みたいな気持ちが強かったですわ。
「漫画アクション」の連載が決まったのはよかったんやけど、それがすぐ大ヒットして壁村さんの怒りはハンパやなかったなあ。そら、当然ですよね(笑)。
けど壁村さんには、ほんまにお世話になりましたし、漫画を見る目が厳しかったのでありがたかったです。月50ページの『暴力大将』は十年続けさせてもらいました。
うちのプロ全体で500ページを超える連載をしていた頃は、野球チームが2~3チームできるほどアシスタントがおりましたね。食事は基本的に出前を取るので外に出る機会がない(笑)。

●小池たかし こんな生活してたらアカンってことになって(笑)。仕事場から五百メートルほどのところにあるグラウンドまで走って行って、野球をやり始めたんやな。

●みわみわ そうそう。なんでか忘れたけど、みんな裸になって野球やってた(笑)

途中から僕も参加して。もちろんエースで四番に決まってますやん(笑)。余談になりますが、市が主催する野球大会にも出場したこともあります。
それと、どういう経緯やったかは忘れましたけど、水島新司先生のチームと横浜スタジアムで試合をしないかという話になったことも(笑)。もちろん丁重にお断りしましたよ。だって、水島先生は大マジで野球やってはりますから。

◆青年誌と少年誌とでは、描き方にどんな違和感がありましたか

両方を経験して感じることは、青年誌で読者の支持を得たからというて、少年誌で同じやり方は通用せえへんというか、勝手が違うっていうことは感じましたね。
僕の場合、少年誌の方が大きめのコマになり、アクションも多くなるんですけど、コマを大きくするとどうしても間延びしてる感じがして気になりました。
個人的には青年誌と少年誌、どっちが自分に合っているかなんて、いっぺんも考えたことはなかったけど、『嗚呼!!花の応援団』終了直後は青年誌読者の方が僕の描く漫画を強く待ってくれているような、そんなイメージはありましたね。
少年誌で連載していた時、青年誌で描いてみたい漫画が次々と浮かんできて、それを片っ端から描いていきたい衝動にかられて往生したことがあります。
そんなもん、誰が考えても物理的にムリやないですか。それやのに描きたくてたまらない。そんなジレンマを抱えて仕事をしていた時期はありますね。
漫画で後悔したことはないけれど、失敗したことはたくさんあります。『怪人ヒイロ』を終了する時、担当とコミックスの最終巻にきっちりとはいるようにページ数を綿密?に調整していたのに、いざ最終巻を出す時になぜかページが全然たらなかったんだす。(笑)
壁村さんは「ちょっとだけ足せばいい。番外編でもいいから」っておっしゃって下さったんですけど、そのままずるずると時が経って、なんと30年以上ヒイロの最終巻が出なかったんですよ。なんとかイーブックさんで、この前出してもらいましたけどね(笑)。

◆どおくまん先生自身は若い時一時漫画制作から離れられたとか?

そやね。漫画を描くのを辞めようと思ったのは37歳の時ですわ。弟の太地(大介)が亡くなってから「何のために描くのか」「誰が喜んでくれるのか」がわからなくなってしまったことが一番大きかったですね。
だから『怪人ヒイロ』を完結させて、ペンを置いたんです。編集者や読者が待ってくれていることもわかっていたけど、モチベーションが上がらんかったら、もうどうにもならんのです。プロダクションの方は小池とみわみわにまかして2~3年まったく行きませんでしたね。

◆どおくまんとしてのマンガの描き方へのこだわりは?

『嗚呼!!花の応援団』の読み切り連載の時は、毎回バラエティに富んだいろんな要素を目いっぱい出して、とにかくヒラメキを待つんです。そしてヒラメイたらバランスを考えながら締め切りギリギリまでさらにアイデアを盛り込んだり、絞り込んだりして全身全霊で画面にそのヒラメキが、さらにヒラメクように漫画を描いていく…。週刊誌は終わって一息つく間もなく次の仕事が始まるので、毎週、正直つらかった。でも絶対、妥協はしませんでした。
一度でも妥協するとその場で漫画が死んでしまうからです。

◆今後についてですが、もう作品は描かれないんですか?

いえいえ、描きたくなったら描きますよ。
あ、そやけど、もう通常の漫画誌には描きたくありませんね。〆切のあるのは、とてもしんどいから(笑)
『嗚呼!!花の応援団』の続編とかは絶対にありません。ヒット作を延々と、お描きになっている先生方もおられますけれど、僕にはそんなん考えられませんわ。
あの作品はあの時代やから描けたんです。『嗚呼!!花の応援団』の熱さや勢いやエネルギーは、あの頃の若かった僕だから出せたんであって、決して今の僕が出せるものではありません。そんなもんやと思てます。

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