哲学の可能性~哲学で何が救えるか?

哲学の可能性~哲学で何が救えるか?

鰆木周見夫

880円(税込)
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3・11以降の日本は、いったいどこに行こうとしてきたのだろうか。遅々として進まない被災地の復興、収束しない福島第一原発の事故処理、出口が見えない核廃棄物の最終処理問題、暴走しはじめたかに見える政治状況……。閉塞状態が続くこの現状にわたしたちはどう対峙すればいいのか。本書に収載されている3編はいずれも15年以上前に発表されたものだが、指摘されている内容の本質は、現在のわたしたちを取り巻いている状況と奇妙なほどに一致する。 第一部の『哲学の可能性』では、中学生の自殺の問題を端緒に「いじめ」が会社組織内はいうにおよばず、あらゆる集団、共同体のなかで陰湿な形で進行していることを指摘し、その大きな原因のひとつは数の力を背景にして弱者を排除しようとする「偽りの民主主義」にあるとしている。この「偽りの民主主義」が<個の責任><共同体の責任>を曖昧にして無化する状況を生み出し、その無責任化をそれぞれが自身の力で気づくことすらできない危険な世界を現出させているとしている。この危険な世界を克服するためには、「真の民主主義」をひとりひとりが獲得しなければならない成熟した哲学・思想によって取り戻す以外にないことに気づいていく。 第二部の『世界神話の類似性と「記・紀」神話の政治性』では、古代期最大の内乱「壬申の乱」を目の当たりにし、殺戮の時代を巧みに生き抜いて政権を陰で動かした藤原不比等に焦点を当てている。不比等は官僚の草分け的存在。知識と策謀を駆使して政治の実権を握り、果ては娘を天皇家に嫁がせることで天皇をも自身の手でつくり出したばかりか、日本最古の文献「古事記」「日本書紀」の神話のなかに自身と藤原家の正当性を狡猾に盛り込もうとした人物。目的のために手段を選ばない不比等の姿は現代の官僚と共通するものの多いことがわかる。 第三部の『縄文と弥生の文化攻防』では、「戦争の始まり」が追究されている。考古学史料、発掘された人骨資料などから縄文時代には「人間同士の殺し合い」はほとんどんなく、戦争が始まるのは弥生時代からだとする説に焦点を当て、それでは縄文から弥生への時代の転換期にいったい何が起こっていたのかの謎に迫っている。 これらを読み通した後に、日本の政治、社会、経済、教育、生活……等々の現状を問いなおしてみると、3編のその先見性に驚かされることになるだろう。日本が不穏で危険な方向に流されつつあるように思える今こそ、熟読しておきたい一冊になっている。

ジャンル
学術・学芸
出版社
島燈社
提供開始日
2016/06/11

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